2013年01月16日

『幼児期の第一次反抗期』の認識とかの話(2)

(最初に言っときますが今回はかなり紆余曲折して話繋がってるので、)

■時々フロイドが失敗しかけた話に登場する→「力動論をやるなら経済学でやればよかったのに説」だけれど意図しているのは『均衡論』だろうって話なんだが、
(量的計測を重視しちゃうと違うと思うワケさ)
『不安→不安定→穴埋めだとか反動』
この構造はロジックで言えば「○○だ大変なことになった」=その瞬間から→「そうかこれは○○だから○○へ」を求めるような構造的均衡論で、
つまり「何かが現実から乖離することで不安定化する現実認知はこれまたそれと釣り合うような形で現実から乖離するぐらいのナントやらを希求する現象」の仕組みは特別何がどうという意味では無くって、不安定な建造物を見れば誰でも突っかい棒ぐらい必要だと感じるような(ツッコミどころ的認知)、或いは遠近法に歪みのある抽象絵画を見た時の不快感(=瞬間補正を求める希求が派生する)、セーターの表裏を間違っている人を見た時の「あちゃ〜」な感覚、交通事故において全てそうだとは言わないが「アクセルとブレーキを踏み間違える”何かの因果”」のような”対の”だとか”空白を補完するような”現象というか”初期的認知”する概念が、この構造の仕組みなんだと思う。
(※フロイドは『死の衝動』とかのところでこの辺やろうと思っていたのかもしんない)
パッと見「強迫的認知に似ている」と思われるかもなんだが、
そのとおり。そのつもりで書いてます、
自意識の意図が初動にあっての話では無く初期認知現象の方。

たとえば恐怖におののき正視できずに手で目を隠す反射だとか(これ映画じゃ無くて現実だと自殺行為だから「一拍置いた後」通常であれば「見ようとする」)、

■これは必ずしも対称性っぽい概念である必要は無く、「不安が均衡により安定さえすればよい」(不安による空白部分を埋める補完的認知でも同じ)どちらか言えば経済学に近い現象の話。→つまり『均衡論』。

本来価格は結果論である事そのものに経済学的なプルーフ(証明)の置き所があるのに関わらず「”その値段のモノ”が生前から実存すると思ってしまえばそれは一種の強迫心理となる(陰陽師的な呪(シュ)つーか幻想論が成立しているって事だわな)」。
なので前段の『均衡論的初期認知』は事実上「強迫的思考や認知」と同じ。
(不安や不安定状態に迫られて→付け焼刃でもなんでも瞬間対処しようと対称的或いは補完的な認知が自動的に起動する構造がありますよって事だから。構造は「強迫的思考や認知」とそのまま同じ。)

注)ちなみに経済学における価格均衡論と文化的名品の評価は意図が違うから←こっちは希少性に関わる価値論の原則とかの話。

■うっかり均衡論的概念が仇となって→ガチで実存している事象を見落としがちなのも事実。
(これがさっきの「その値段の品物が本当にあると思ってしまう」認知だわね←前記注釈にある希少性や名品価値認知現象が例えば「閉鎖的家庭社会内」で起きるとエディプスコンプレックス化しやすいってのもわかる話で。→「環境だけが理由の希少性フラグの誤謬」)


つまり→そんぐらいの勘違いは自我に置いて日常茶飯事なのだから=「強迫心理の無い人などいない」ところに繋がる。
(それは日常生活において現象として普通に起きるみたいな、)
えーっとこの話になると
「単なる対処的というか反射的に認知したから強迫心理って事は無いだろう」と考える人も勿論いると思うんだが、
心理学で言うところの「強迫心理」ってのは、本来であれば一拍置く事で(恐怖状態から瞬間目を逸らした後に指の隙間から覗こうとするように)どうにでもなるってか、主導権は『自意識』に渡されるので常にこの初期認知は自意識プルーフされるワケさ、
簡単に言えば強迫状態が継続する事は無い。
(『自意識』がうっかり見落とすとかはあるだろうけれど)
或いは『共同幻想』も強迫心理の一種だ論ってのも(後から主導権を自意識に渡したら『共同幻想』の意味は無いので)、その認知の継続固定化がポイントになる。
上記のように本来「強迫的認知」そのものは単なる現象で、そこいらじゅうに普通に発生しているんであって、心理学で問題云々となるのは→『自意識抑圧』が起きて(ナントカコンプレックスなど)通常起動する筈の『自意識プルーフが停止』するような状態で、「強迫心理」が意図しない固定化してしまうとかの話だから「強迫心理単体が殊更悪玉」みたいな話にはなってないワケさ。

(注:『共同幻想』選択適応の場合、権威主義に従う(或いは自ら選択する)ような形で自らの自意識の腰を折っている自覚あるワケで、その折れてる自覚が=「適応の自覚」だから間接的であってもそれは確信犯的プルーフを経ていて、心理的問題における盲目的だとか切迫的だとか選択の余地無い感のある「強迫心理の継続」とは意味が違う。)


えーとだね、何の話をしとるんかというと、
幼児オムツ不安におけるコンプレックス派生状況は自然法則みたいな現象として派生しまっせと、ここを流れ的に担保しとるワケだ。
(だから通常は『自意識』が台頭する場面で『反抗期』が起きて「誤解の誤解は現実だ」みたいな漫才みたいな法則で現実デバッグが行われる。)
今回の話は、そこを「そもそもワザと幼児期トラウマを演出してないか」っつー疑問だから。
現状のままだと『反抗期』を宿命づけられる形になる。
(あくまでもスケールの話ね、『反抗期レス』でワイルド種のサルに戻ったなん話をしようとしているワケでは無いから。)


■『対称性だとか均衡論』ってのはあくまで自我機能認知局面の”一部”で、これとは別個に「だから何→だったらアレ→となればコレ」のような自意識マター内だけで展開される『桶屋の法則』も別途ある。←これが『自意識認知』。
前述の「一拍置いた後に『自意識認知』に移行する」のが自然の流れで、『対称性だとか均衡論』の話はさ、「強迫心理」などの典型的特徴や予測が可能だっつー意味だから。
(『自意識マター』における『桶屋の法則』はイチイチ説明する必要も無いでしょ)
『桶屋の法則』も「これは何?」みたいな一種の不安を発端に(天秤の反対に釣り合う概念を置くのではなく)、不安そのものを理解によって解決してしまおうって事なんで、仮に「自意識起動までの一拍置き」に失敗すると、誰でも『桶屋の法則』から『対称性だとか均衡論』の方へ認識は単純化されてしまうので(「強迫係数」ともで言えばいいスかね)、『対称性や均衡論』ってのは専ら無意識領域の衝動とか反射とかの認知局面の話って事になる。

勿論『自意識マター』の起動(覚醒具合)が強い場合(たとえば『単独者』)
=集中力
意識が集中していれば『対称性だとか均衡論』の認知はあったのか無かったのかわからないぐらい瞬間に『自意識マター』に代替されるワケだから、事実上『対称性だとか均衡論』認知すら消滅すると言い換えてもいい。

だから休みでだらけているだとか、疲れているだとか、睡眠不足だとか、酔っぱらっているなど『自意識』立ち上がらない時には誰しもが「うっかりミス」を起こしやすく、通常言われている「うっかりミス」ってのは、うっかり上記の『対称性だとか均衡論』でスーっといっちゃってる状態と見立ててもいい。
(ヒューマンエラーとか言われている奴ね、)

でさ、赤ん坊に集中力は無いなんて話をしているワケでもなく、
動物行動学的に赤ん坊の集中力を観察してみようって話でも無いワケよ。
「目も見えないのにお乳が常にどこにあるのか確認できない」
「尿意があるのにどこに用を足せばいいのかわからない←そもそも自分で用をたしてもいい場所すら全く用意されていない」
 ↑
この状況を通常パニックと言いますが、
パニック状態=自意識を喪失するほどの興奮状態ですから、
オムツの話ってのはだね、
赤ん坊にも自意識なりの潜在性があるかも知れないのに関わらず(てか現代文明技術なら相当に赤ん坊にストレス起きにくい方法が他にあるだろうってさ)、あたかもワザとこれを悪化させてないかねって事でありまして、

こうすると→『対称性だとか均衡論』認知を倍増させ、不安の穴がデカイからそこを対象性なり補完的均衡なりで埋め合わせする”何”が過剰化するわいなって話。


話は更に更に戻って、
■岸田が生物学系の動物行動学で言うところのローレンツばりに『幼児における普遍的不安』みたいな着想(霊長類としては二足歩行が仇となって異様に未熟児で出産するため自力方向やら生殖能力の獲得が奇形に近く遅くなっていて幼児は普遍的に身体障害者の絶望のような不安感を誰しも過去に持つという見解)からエディプスコンプレックスを「こりゃ人類普遍じゃないの」と仮説するから後の『共同幻想論』はあり得る。
(※乱暴に言えば「幼児期=人類普遍の不能者トラウマ原体験と、これと対称を成すその不安を補完する親への依存的性愛」)

(※幼児期=自我的にその構造は「まだまだ」な上に前述の”パニック場面”の育児環境により、一拍置いて自意識起動とかの場面を期待する方が難しい。)

(※俺は性的繁殖能力云々はあまり大事だと思っていない←霊長類のボノボは赤ん坊の時から”擬似性交コミュニケーション”するから、人類もそれは”擬似的でもいい”事は明白なので、何もチンパンジーと人類の繁殖能力獲得年齢が同じぐらいじゃないと何かかが何するような考えは持っていない。)

■端的に言えば心理学は「人類は狂ったサル(或いは斜め上方向に進化せざるを得なかった特異点的亜種)」であり、「その狂猿を合理性の枠に留める方便」が知性やら文明やら文化やらという本能の代替物と(不安心理からその均衡対象性として出てきているので=現実から過剰に乖離する→文明バネ)、その伝播に成功する族(原始性のバンド)がいたとする時点から(言語ってものの発現やら)現在の人類なりを説明してんだけれども、
常にこの話は『ニワトリか卵か』同様に「どっちか先で、それは目的なのか方便なのかやりくりだったのか」など一種の禅問答で終わる。
(故に「どちらでもいい」)

うんでさ「でもご立派に文明化してんだからそれでいいじゃん」と考える人もいるかもしんない。
 ↓
■何か殊更文明や文化が「現実との乖離を合理性を担保している知性」のように思っちゃう人いるかもしれないんだけれど、「現実から乖離するほどの極度の不安→神への恐れ→神話→伝承→お祭り(主催する共同体が組織として政治結社的内容になると宗教になる)」のように、この補完が一定の合理性を担保しているように”見える”幻想性(フェイクとしての現実”らしさ”)ってのは、『共同化権威主義』と強い関わりがあって、これは『共同幻想論』とか長大な話になってしまうのだが、簡単にまとめると→平均化=歩留り的平坦化(=たいしたことない化)→均衡するには不足する乖離加減を社会的権威性で納得させる(=不条理感の演出で過剰化を補完)のような仕組みでこれは(民主主義における平易化平坦化とも似ているんだが)上手い事あっちの世界までいかないようになっているんだが、
権威性の部分が反動保守(保守反動)現象などでドーンといっちゃう事が時折あり、この場合戦争の常識化という『共同幻想』にも変質するので(そもそもの伝統的不安は多民族の侵略という安全保障だし)、英知や知性というほどの代物では無い。
(定期的に戦争や反動保守・保守反動などの破綻を織り込んでいる)
伝統文化なぞがハイレベルに至る背景には”偶然長期化した安定期”などに「どこやらかの世代でそこに関与する『単独者』の暴走」なんかが影響を与えていて、『桶屋が儲かる法則』はなんだかんだと『自意識マター』の話になるのだから(つまり「昇華」って事だから)、独立して自由に活動する主体が存在しない『共同幻想なる概念』が自然発生的にハイレベル化が派生する事は無い。
(これは民主制における政治家が民衆のレベルに比例するとかの話と被るっちゃ〜被る。)
つまり『放置しておくといい方にしか進化しない』とかを期待するのは誤りで、
(そうやって進歩するのは理系の学問とかの話で、)
『共同幻想』そのものに期待できるのは歴史の教訓や経験則からくる修正止まりと考えていい。

歴史の教訓や経験則からくる修正にさ「幼児のオムツ」が入ってこないのは何故?
(後段説明に出てくるんだけど『陰部を隠す』なんとやらに関わっているだろうか。)

しかしさ、
しかしだ、
考えてみれば原始時代には”のようなもの”はあっただろうけれど、いかにもな「オムツ」が人類普遍であったとは思えない。
現実に現代社会でも偶然古代原始時代に近い暮らしのまま存在した少数民族は所謂パンツに相当する下着にこれというものが無いとか普通にあるんであってだね、
温暖な地方なら室内も室外も曖昧な暮らしであり、ガキは下半身裸でウロウロしていたりする。多産であれば赤ん坊の面倒見るのは長女やら子供達でいいのだから必ずおんぶや抱っこしながら労働をって環境がベタで発生しない場合だってあるだろう。
(温暖な気候で日中ほとんど屋外生活なら最初から幼児へのオムツの必要性は随分低い水準になるだろうし:注)ここに文明化と北方民族の関係とかもあるんかもしんない。)

■また話は戻るけども、
だとするとだよ?
「その集落が陰部を隠すべきだと殊更考える人が多い少ない」ってのが分水嶺だって事か?
(或いは”温暖”か”極寒”かなどの気候的環境)
そしてこの不安の特徴として→「ひとたび伝えれば相手の民族はそれまでそこに気が付かなかっただけで、途端に陰部を隠す文化(=不安)が伝播(伝染)するって意味か?」、
(※この辺は一時ほぼ確定的な学説だったミトコンドリアイブで人類の始祖は全員某アフリカの一地方とされるので、どの時点で『エディプス化』したのかって類推はわかんないのだけど。=人口爆発が起きる以降かもしれないので「最初っからだ、終わり。」と考えるのも都合良すぎるように思う。←この場合少数民族の習俗を説明できないからだ。)


■「不安の発明(発見)」(前述後段部分の説を取った場合)
可能だよねこれ?レトリックとして。
「○○○○、それって○○じゃないか!」という投げかけ(或いは呪(シュ))。
果たして原始時代にどれだけの語彙があったのかよくわからないので何ともなんだけれど、お笑いでもブラックジョークでも詐欺師でも営業トークでもソフィストでも哲学者でも何でもいいのだけれど、そこにあった『原始共同幻想』を言葉なりで破綻させさえすれば不安は派生する。
(精神分析だってある意味「強迫心理」を破綻させて、一度「当初の不安」まで現象を還元させるから、そこを「自意識マター」に入れ替える事ができんだし。)

事実、文明に触れた少数民族はおしなべて文明化を辿り(アーミッシュみたいに文明を捨てる宗教もあるけどさ)、その影響が薄いのは地理的環境による非情報伝達社会とかぐらいで、ガチで文明圏が彼らに侵入するとそのほとんどが「ことほど左様に文明化する(旧来の原始共同幻想は迷信化して脆くも壊れ=不安化によるここの隙間に均衡論として『文明化型共同幻想』がサクっと洗脳よろしく置き換わる)」。
 ↑
これさ何も特別な話じゃありません。
現代マーケティングだとか広告も同じで、
「今や○○が無い生活なんて考えられないのですっ」みたいな広告やベタな保険会社が不安を煽る広告あるように、販売促進の現場では「不安を煽って需要に変える」とか現代社会でも日常的に行われている事だから。
(演出的に煽りやすいコンテンツであればあるほど効果的)

・・・。
ちょっと話を巻き戻すか、

うーんとだね、
再び経済学なんだが、
ぶっちゃけ現在「貨幣経済って大丈夫なのこれ」な局面になりつつある。
所謂信用創造だの銀行制度云々だの、
乗数なんとかで本当に経済はアレなんですか?とかね。
本筋はさ「投資による生産性の向上マジック」によって、生産物は倍々ゲームで倍増し余剰労働力が新製品をって巡り巡る話なのだけれど、人間の消費性には限界がありまして(ある水準で足りちゃう)、且つ寿命があるので(←この点は必然として人類は不死を考えるようになると思う)『増産される財貨の宛先』を新興国の勃興で誤魔化してはいるんだけれど、行き止まりは必ずある。
そして『投資経済学』ってのはさ、行き止まりで破綻なんだねこれさ、
(デフォルトして一巡→またふりだしに戻る循環。)

近代経済なりの発端はだ「フランス革命」なワケ、
うんでニーチェあたりが凄く心配したナントカってのはさ、「当初王族や貴族階級ナントやらー!」で始まる饗宴が、全然貴族が獲得している何の斜め上にいってしまいとかの話なワケだ。
ところが当時の貴族階級がそれを望んでいたのかと言えば、一部の話でしょうに。
むしろ守旧派的位置付けなんだし、
 ↑↓
ここがおかしな事になってる。
「事が1対1で済んでいれば?」
民衆は貴族階級並みの暮らしを手に入れる事が最終目標とかであっていい筈なのだが、当時の貴族階級など持っていなかった『原子力発電所』やらを社会資本で抱えても、まだ労働者のままとかさ(笑
あれれ?なんだわ。
その代わり果たして当時の貴族が喜んだかどうだか知らないが、ガキの部屋まで薄型TVでどこの世帯でも買おうと思えば自動車ぐらいどうとでもなるみたいな事柄がですね、
なんかさーなんか変なんだよ。
(※貴族性が希少性と関係してヒエラルキーがある事自体が最上位の何って話でもあるから上記の話はそのままにはならないんだけれど、これも希少性を「椅子取りゲームに置き換えて猛烈労働者みたいな」変形になっとるとも言える。スゲー幻想化、)

この悪循環に「幼児のオムツ」ってキモになってネ?


■何を言おうとしているかと言うと、
前述説明の「不安の発明(発見)」文明論で事が進むと、
伝播する時の論理矛盾(文明化が所詮不安の煽りかもしれない要素)→これが更に梃子の原理となって、思惑と違った斜め上に向かい(そもそもセールストークなんだから騙す気バレバレなんだし:古代で言えば詐欺的ソフィスト)→考えてみれば『共同幻想』自体インチキだったよな〜な「行き止まり=破綻均衡点」に至り『共同幻想』は瓦解し、様々な古代文明とかも滅んでるんじゃないのかね、これ。
『共同幻想の賞味期限』
賞味期限を限界まで延長する様が→現代社会の莫大な国家財政赤字に現れていて、
(先進国だの偉そうな事言っているが、世界は莫大な帳簿上の投資を派生させるため偽札経済みたいな代物と化しておりまして〜)

<再び話は戻ってオムツ論が前段前者の「気候論」だった場合>
■『アダム論』だとか『ユートピア幻想』でもいいし『アルカディア論』でもいいのだが、結論温暖で気候のいいところを人類は夢見ていて→これさわかりやすくいえば「殊更労働も無くのんびりくらせる地理的環境の占有」だよね。
フランス革命以来あさっての方向いっちゃった文明化では無く、場合によってはニーチェ的な貴族性への希求(本丸)。
温暖な気候で「お腹が空いたら果実を取って食えばいいじゃないか」な世界への憧れは(やっぱそんな気候のところで偶然帝国主義欧州文明に発見される前の少数民族こそ勝ち組だった論)、現代文明と逆行したところにある。
(※事実半分偏見だけどさ、温暖な国ほど時間にルーズとかなイメージあるよね。)

このボタンの掛け違えとさ、
『幼児とオムツ』に代表される”何”には因果関係がありゃしないだろうか?
ここに、現代『共同幻想』の崩壊過程で進行中の『単独者化(組織票皆無の単独者による民主主義社会)』、これはどう関係してくるんだろう。

(なんかスゲー馬鹿みたいな話なんだけども「ヌーディスト村は平和か」みたいな検証案外意味があるかも。日本も平和だった江戸時代なぞは隠すってより開放的だったらしいし、←こんな事言うとイスラム教徒の方からお叱り受けそうだけれど。)

■経済学の話に触れた時に嫌ってほど説明しているんだが、
本筋「そんなに生産性が向上し、いよいよ産業ロボット開発に成功した」というのであれば、民衆は労働から毎年数時間ずつ解放されてもいい筈なのねこれ。
(全然突飛な考えでは無くって「そうなってなければ詐欺だろう」。事実奴隷解放から先進各国の労働法施行までは”その線”でいってたよね?→これは第三世界の安い人件費なんてーな奴隷制度のすり替え的な経済の退行化で足踏み中だけどさ。)
労働のフリー化でありフリーエコノミーでありベーシックインカム社会となる。
(後は放っておいても技術革新する分国民所得も倍増するが「総需要の歩留り以降は既存社会資本のメンテナス社会となる」←そして最後の需要である不死のテーマに移行みたいな。)

だ け れ ど も

ガキにオシメつけてトイレを隠して、ワザワザ屈辱的絶望感を始まりとする”何”、
それはさ、
「何これ?」
ひょっとしてひょっとしているのじゃないか?
無理ゲー状態を獲得している鍵はこことか、無い話でも無いような、、。
(※貴族がガキにオシメはどうやってたんだみたいなそういう直線的な話は関係無いのだわ、ノブレスオブリージュでもいいし貴族のヒエラルキー的希少性でもいいよ、これらは『共同幻想の原則』部分で説明したように→権威性:傲慢な地位により”特権階級”は構造的に不安の過剰化を抑制する可能性あるから。当時から貴族社会にはメンタル問題あったけれども専ら『共同幻想刷り込み権威の過剰化』だったりするので、現代社会とは構造が違うものだと思う。)

これまた収集がつかない話になっているんだが、

■『単独者社会』を考える時に社会制度としてさ「女性の労働を優先して保育園系を充実」これ本当にアリか?などの根本的な論議に極めて重要な関係あると思うんだわ。
確かに今後の先進国は「家族社会の概念」という『共同幻想』まで崩壊するので、子供手当なりさ子供が個人として所得を持つ人権の概念の中で、親権そのものを撤廃すべき封建的既得権と考えてだね、子供が社会で自由に育つ環境云々は「オーソドックスな流れ」なんだけれども、
(※勿論組織的運営を前提とする”収用施設型”の施設では無く、個別対応型の施設が前提の話。)
『オムツ解放』とか社会資本として運営されるような公共施設には難しいだけでなく(この近未来社会は労働フリーなので母親の労働とか現役復帰をメインに考えている事自体間違いなんだけど)、結局人類は『高度高齢化社会の果てに不死を求める』方向性とも関係してるワケで(育児論とかどうでもよくなるかもしれず)、

ちょっとな〜あれだな〜的にわからない事が多い。

<まだまだつづく>


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posted by kagewari at 20:49 | Comment(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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