2013年01月01日

『外形的構造と主体性認知との誤謬』

政局は小沢派が分裂というアララな状況で一幕下りたところで、
心理学に話を戻します。

例の理系哲学における「観察者の主観により事象が変化する論」みたいなところと関わっているんだけれども、個人心理学上の自我における主観というか一人称認知は果たしてそのまま本人認定していいもんだろうかって現象がある。

誰しもが「自分は自分ですが」と体感している主体性の認識というのものは何によって確認されているかと言えば「行動なりを企画する動機形成の機関が存在するから」となるんだけれど、
例えば「二の名」的自称って世界で『復讐者○○(なにがし)』なんてのがありますが、この人物の自称はその行為における『復讐』って外形に依存していることになる。
(※ここは帰属性アイデェンティティー論と同じ)
個人という概念をすっぱり抜き出せば「森に人類自分独り(アダム設定)」で考えるべきところなんだが(ここは基本中の基本)、しかしそれは内省的思考時における”設定”だし、自我の運用・実務上(所謂自我の日常)しがらみであるとか巻き込まれ型であるとか、偶然○○事件があっただの、自分の「二の名だとか呼び名(人呼んで)だとかミドルネームでも構わないのだが」
→自称するアイデェンティティーってものは『外形的事実や構造』に起因している。
(反動ではなく主体的な自称という意味で←『抗(あらがう)』構造として。)

これは「自分と現実との関係性」と判断してもいいのだが、自分の存在も現実の一部なので、無理やり抜き出してしまうとその段階で現実から乖離してしまうのであり(言語で説明できなくなるって言えばいいかな)、逆さまに言えば自分は「認識される現実の一部として製造されている」ようなものでもあって同時に「その現実を認識しているのが又自分」という難解な構造になっている。
 ↓
えーとだね、
「何ら外部情報に接する事の無いコンピューターはコンピューターと呼べる代物か?」のような命題ですよ。
うーんとその機能性は内蔵されているというより、外部構造により再発見の形で実存可能になる(乱暴に言えば”使い道”が生き方みたいな形で組成されている実態(或いは主体)を証明する)。

なので「観察者の主観により事象が変化する論」みたいな話が重要になってくる。
これが観察者である主体によって変化してしまうって話。
外部との接点における表面上の認知があたかも主役気取りでコアを自称してしまう。

仮に自分を含む現実を第三者的に俯瞰で客観視可能だとしてもだ、それじゃ主体性認知を保持できなくなり(ドラマにおけるナレーションみたいな)、主体性の認識すら壊れてしまう可能性だってある。
(※これは第三者性認知が絶対視で可能だったばやいね←あり得ネーんだけど)
つまり、好むと好まざるとに関わらず主体性というのは「現実の一部でありながら同時に観察者としてそこに干渉(乖離)する存在であり同時にその証明者である」、
故に実存をリアルに踏みとどまらせるためには、アップデートみたいな感じの認識カウンターを常備するような形で人の心理はどうにかこうにか運用されている。
(そこのカウンター効かないと「現実との乖離がノーブレーキになるので」あっちの世界までいってしまう的に「乖離ってか現実を喪失した妄想」になってしまう。)
『構造的に外部との接点が主体認知の錯誤を始めた時にこれを否定する第三者的認知(注:第三者という言語が既に主体的認知や主観のアンチテーゼの言語である事に注目)』←これ陰陽学じゃないけれど「ワンセット」で主体を構成するんだわ。

■多分ここんところの構造は『天秤と力動論』みたいにだね(或いは経済学において「総需要なのか総生産なのかの論理」)、同じものを指しているんだろうと思う。
それこそ観察者の視点により姿が→主観だったり第三者になっているだけ。
認知というのは常に「反動形成を込みで”1”になる」。
正に対して負でもいいけどさ、
表と裏みたいな図式が天秤の左右に乗っている構造がある訳だよ。
(外からデスクトップを見れば表だが中の人にはそれは背中なワケだ)

ほんで、この話も以下の誤解を生みやすい。
自我におけるそんな”スタビライザー”みたいな認識がご本尊なのか?ちゅう論法も成り立つんだが(中の人的認知)、確かに構造論で言えばそれは『抗(あらがう)モノ』だから、自意識を自意識足らしめているモノかも知れず、いい線いっているかもしんない。←ついうっかり自己批判的な第三者だけがご本尊じゃないかと思ってしまう誤解。しかしだ、
”スタビライザー”って付属物だしさ(笑
(むしろそこは「自意識が関与した事を確認しやすい局面」であって、そこを主体と認知してしまうのはどうかなと、)
で、前述のここに繋がるワケ→※認知というのは常に「反動形成を込みで”1”になる」。正に対して負でもいい。

主体ってのは「運動における現象としての呼称(或いは分類)」に過ぎなくて、
実は極めて流動的なものであり(カオス論とか好きな人はここを見てんのかな?)、
現実そのものなんでしょうよ。
 ↑
これさ論理として普通に読めない文章になってしまうのは仕方無くて、ニュアンスで理解してくれって勢いになるんですが、、

現象としてその局面で派生するんだよ「主体性認知(主観)」っつーものは、
カメラのアングルのように。
ひょっとするとそんな実態は無いんだと。
究極の『唯幻論』史観って言えばいいかな?
(こんな事を考えても心理学的に意味があるのか無いのかわからんのだけど、)
主観を力技で実存している状態にしているから自らも現実の一部足りうる。
その力技が『抗(あらがう)』って要素で、
『被(こうむる)』がヤバイのは、陰陽学で言うところの「陰か陽のどちらかが欠けている状態」なのね(その欠けているところが依存性により補完されるから問題のある状態として形を留めているだけ)。

一見すると『被(こうむる)』と『抗(あらがう)』は正比例的な反対語に理解されていると思うんだが、
多分、これ違うんだな。
『被(こうむる)』ってのは人間の自我における幼児心理現象だからさ、誰にでもある訳で、反抗期のアップデート(『抗(あらがう)』)により依存性による補完が代替され(依存性が切れる)、自立機関として1を成すワケだよ。
『抗(あらがう)』が欠けるってのは双発エンジンの航空機が片肺で飛ぶようなものでだね、誰しも何の苦労も必要無く『被(こうむる)エンジン』は標準装備なんだが、『抗(あらがう)エンジン』っつーのは「自我が外部から出張って第三者性認知でスタビライザー効かせるロジックを導入するから構成される」。
(グルグルその場で回転するのではなく前に飛ぶ)

■思春期反抗期の典型例で、所謂大人の道徳やらいかにもなステレオタイプな常識論に批判的反抗が派生する様は「一見社会に対する反抗(や不良化)」に見えるんだけれど、多分これは間違いで、批判の矛先は「自我内面に刷り込み導入された『子供目線の共同幻想』なのであり」→思春期の子供はこれを劇場型で社会に投影しているだけなんだと、
(なもんだから全共闘みたいにさ、本当に批判が社会に向けられる事があたかも本物であると誤解してしまうと、自我はナルチスズムで一杯になり「過剰在庫を抱えた経済」のような歪な形になる。)

※社会に対する関心や批判を否定しているのではありません。その関連で偶然「あれれこれは何(俺の自我の話とは別に:スピンオフ的に)個別におかしい事じゃん」と第三者的に認定されるので(視線がジャーナリズムになってる)、この偶然発見された「何コレ」への批判はナルチスズムとは関係無いからです。


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posted by kagewari at 23:20 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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