2012年11月13日

現実はどこまでが現実か

小難しい哲学の話ではなくって、所謂各種動物にとって現実って『認識の幅』はどこまでがリアルな現実なのかと考えてみる。
勿論「リアルな現実」なんてものは具体的なものでは無く抽象論の仮説的何とやらなので、話自体が倒錯しとるんだが、
わかりやすく言い換えると「あなたは視力いくつなら満足ですか?」みたいな話。
でだ、
視力が3.0だとどうよって(笑
え?だったら何かあるかって考えると「いや、、別に、、」でしょうよ。
(そらあなたが狩猟を生業としているだとか、職業軍人でスナイパーやってるとか、職業軍人でパイロットだとか例外的に意味を成す場合はあるんだろうが、)

『認識の相対論?』
「結論。考えても意味が無い(おわり)。」

心理学だとかで時折問題になるのは『視野狭窄』だとか『錯誤行為』や『倒錯』とかだけれど、こいつは「逆説的に証明される”自然な状態”が構造的或いは意図的にスポイルされている問題」って動的問題であって、当該状態そのものを問題視しているのではない。
素で視力0.1ならそれでいいのである。
(言えばこの辺に「この世でどうでもよくないことなどない」って意味深な”ナントカ”に被るんだが←メタファー:metaphorって奴か?)

ところが、現在進行形の『現実』では無くって、
俯瞰で見る場合の『現実』もありますわね、これ。
その後者の『現実』ってのはおおよそ「リアリズム」みたいな雰囲気のものになる訳だが、
例えば映画に求める「リアリズム」って時折「そこまでやらなくてもいい」みたいな話にならないかい?
ぶっちゃけ視力1.0だとか0.1とか以上に要求アバウトじゃないかと思うワケさ。
(うーんリアリズムの手法が目的化してしまって「そらリアリズムちゅうかディティール拘り過ぎだ」みたいな。)
だってスゲー音楽とかかかってて、そんなん最初からあるわけないじゃん(笑

だとしたら?
俯瞰で見る場合の『現実』ってのはやはり「非常にアバウトなもので」、キモはどこにあるのだろうか。
(「どうでもよくないのではなくどうでもいいのである論」の証明。)

「現実はどこまでが現実なのか」って話。
俺は、心理学やってて「それは幻想だから」とか言う場合さ、事がメンタル問題に発するネタへの回答としての「幻想」って意味と、「本船は順調に航行中です」な時の「どうでもよくないことなどないから」が更に暗韻で表している「幻想論」ってのは、似たような言葉使う事になるが(つか全く同じですが)これ”意味合い”180度違ったりする。
(なので”意味”じゃ無くて”意味合い”っつんだろうさ、)

逆さまから考えるとさ、
「それうまいこと想像できるからいんだろう」じゃネーか?
(映画なんか観る場合、うまいこと想像で補完できない=物語に入り込めないって意味になるんではないかと思うワケさ。)
第一先読みだの『人生は賭け論』にしても、
この状況は「シナリオの先がある程度読めて(これを裏切る物語とかが更にウケるんだけどさ)初めて成立するもの」ってあるだろう。幻想どころかそれは仮想・仮説(非共同幻想的意図の”リアリズム”)として意識されて賭けなんだから(それが賭けだと意識できなかったらナルチスズムと同じ)。

ディテール拘り過ぎて自由度少なすぎると、なんつーか映画や小説においては『面白くない』みたいな。
「幻想性は、予め求められている”実需”(経済学用語の)である。」
(リアルとリアリズム同様にここではリアリティーだから現実性となるので、幻想ではなく”幻想性”だよね。)
カオスみたいなものが意図されているのじゃないと思う。
”実需”だが”条件”ほどでは無く、確率論的揺らぎのような『賭け率の幅』の話ですよ。

競馬でたとえれば簡単、
「出走1頭で倍率1」←これじゃなーんにも成立せんのよ(笑
面白くもなんとも以前に「博打が成立してない」。

ブラックジョークほどの出来栄えではないのだが
■「どうでもいいところが無ければ現実は成立しない」
「成り立っていかないのだ」

ここで又逆説で360度元に戻すと、
「この世にはどうでもよくないことがある」のであればその認知はドグマであり、『枷』だとか『設定』と同じなのだから、作家が物語書く前の思考(や”役作り”)ならアリだけども、いざ話が始まって以降(言うならば”あいうえお作文”が始まったら)そんな固定観念持ってると”詰み”になるだけ。→「”詰む”事が目的化しているならいんだが」。
(これJAZZにおけるコード進行がアレでマイルスがこれを破壊しモード進行のアレがどうしたとかの話も同じじゃん。)


<話は戻りますが>

ものは考えようで、
だとしたら
「現実ってのは随分と自意識にとって都合のいい幻想でもいいのであり」←注:『自意識』にとっての都合よさね(強迫心理や共同幻想に都合がいいんじゃ真逆の意味だから)。
それが12番レースで大穴に賭ける時の根拠でもあり(バカな事には違いないけどさ)、オプティミスト(楽観)やペシミスト(悲観)の自由な振れ幅って事にもなるんだろう。
上記のような”馬鹿度”は、本人そう思ってるのであればそれで自然なんだから、全然OKなワケだ。
 ↑
「いやいや夢を見るのも結構だが、それが続けばの話な」みたいな台詞がありますね。
ちょっと意味違うけども、中畑監督に対する落合の「最後まで(そういうノリで)続けてほしいね」が二重に意味している事って(勿論主たる意味は批判なんだが)、「続いたら立派なもんだ」というところも勿論示唆していて、

こういった『設定の構造』の元ネタが『ドンキホーテ』だとも言えるんじゃないか。
(主人公は『抗い続ける人』にもなっている)

■よく考えると『ドンキホーテ』って、実は観衆の側にある現実特有の構造矛盾を嘲笑するかのような作家側の「ひとつの挑発」にも見て取れるところもあるかも知れない。
(劇という虚構を観て笑っている観衆が二重の意味でドンキホーテだみたいな?)
と、ここは驚くような話でもなく日常的に誰しもが感じている要素であって、
「たとえドンキホーテみたいに思われても」とかって台詞は案外ベタに使われる表現ですよ。

どちらにしろ、
「大穴に賭けるのべきかやめとくべきかの答えには使えんちゅうことです。」
(そんなもんあるかって)

博打は結果がわからないから面白いという構造をもってる。
(=成り立っている)
「サイコロの出目が偶数か奇数か」どーでもいいことだからどっちでもあり得るのであって、どーでもいいことがどっちでもあり得るから大違いの結果も成立する。
(仮に客の賭け方が”何らかのフラグ”により常に同じ場合、勝負が永遠に流れているのと結果は同じ。←これじゃ経済学で言うところのゲーム理論も成立しない。)
(仮に何かの摂理で「常に結果がこうあらねばならない」事象は賭けの対象にならず、大変重要な事なのでこうでなくちゃいけないという”違いの無い”結論が求められる。←これは『保守構造』)

人は心理的にうっかりすると、
「結果が違うからそこに色(特別)がつているように見える(見たがる)」のだが、色はついてるように見える方が”錯覚”なのであって(『保守構造』の錯誤だから→「強迫心理」)、話に色がついたらジャーナリズムは終わりなのだから、自意識はそこをグッとこらえて「色などついていない(中の人などいない的に)」と抗うことで現実は成り立っていると言えるんだろう。


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posted by kagewari at 16:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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