2006年11月03日

昨今のいじめ自殺問題を考える

ここ2、3年自殺を巡る環境に大幅な変化みられるようになった。メディアで話題となっているのは「学校当事者のいじめ隠蔽部分」が中心となっているけれども、心理学的に重要なのは「いじめ当事者が自殺に至っている」点で、報道の内容を検討するとそのほとんどが急性の鬱症状による強い衝動的な自殺である点だ。

何度かこのブログで説明しているけれども、慢性的な鬱傾向から来る自殺衝動は内向性(自己愛的)反復を原因とするので、自傷行為であったり自殺未遂に対する依存傾向が見られるけれども故に本当に自殺に至り死亡するケースはほとんど無い(精神的な悩みを抱えていない一般例の方が自殺率が高いという報告もあった筈)。
つまり、デフレの時期に社会問題化した自殺事例(会社倒産などが原因の)は上記慢性的な鬱傾向とは関係の無い急性の鬱(会社倒産や資金繰りの悪化等外部要因が原因)であったため自殺が死亡にいたる率が非常に高いため『問題になった』からだ。
なものだから、このデフレ要因の自殺問題は経済政策や雇用のセイフティーネット政策課題として論議され、心理学的テーマから一段外れたところにあった。

しかし、昨今のいじめを原因とする急性の鬱傾向による自殺事例は明かに心理学的背景を考え無い限り問題の解決とはならない。
『急性の鬱傾向』とは、そもそもどういう意味か、
当事者には元々「人格構造上の問題が無く」、置かれた環境の心理的な圧力が外的な強迫構造を形成し(慢性的鬱構造の場合これは当事者自身の人格の一部である)、当事者の心理的環境を集団心理的として鬱構造と同義の状態に追いやってしまう結果である。
当事者には、この鬱構造に対する抵抗力が全く無いためパニック症状に近い対応に負われ内向的発想ではなく、能動的な責任意識の現われとして(本当の絶望を事由に)自殺に至ってしまう。
つまり、彼らを自殺に追いやったのはこの集団心理の部分となる。
同時に重要な事は、集団心理を原因とするのだから=当事者は「社会適応型人格」の持ち主で少なくとも10年前には決していじめの対象として選ばれる事の無かった人物である事だ。その選択は「場当たり的」で、構造的なガス抜きとして選択されているだけなのでいじめ当事者として選択される理由等存在しないからだ。

ここで初めて「学校当事者のいじめ隠蔽体質」がクローズアップされてくる。
つまり、陰湿なほどに閉鎖的な社会が学校内に成立しているのであって、昨今の自主独立型の個性化から程遠い場所に『学校社会が浮いている』事をそれは証明している。
戦後初期の学校社会の在り様は、家庭・地域社会と仕事上の一般社会との中間的存在であり、もっぱら一般社会に出るためのトレーニング的意味合いを持っていた。
しかし現在「家庭・地域社会は崩壊」しているし、果たして一般社会なるものも存在しているのかさえ怪しい。一般社会とは市場経済型の都市構造によって代替され、人間関係上のコミュニティー的意味合いはとっくの昔に崩壊している。
職場で「学校のような友人関係を築こう」等ナンセンスであって、友人関係はプライヴァシーでもあるから、もれはもっぱらその人物が個人的に社会で活動する中から選択されるので「よりによって社内親友がいるべきだ」なんて話はナンセンスなわけだ。
むしろ昨今求められているのはビジネスとしての信頼関係の構築であって、これは下手な友人関係より厳しい責任意識を求められるのだから、友人関係のような甘えはむしろ未成熟な関係でさえある。
家庭・地域社会にも同様にコミュニティーとしての共同幻想を失っているのだから(地域柄や家柄が個人の人格を定義する力が甚だ弱くなっている)、学校社会等というものやそもそもその運営は現在全く意味の無いものでしかない。
極端に言うなら「単なるストレス要因」だ、

本来大学におけるオープンな個人参加型の運営が、小中高でも望ましい事は学級崩壊が始まった頃から明白であった(授業に参加できず学習上の問題があればそれは単に当時者個人の問題に帰結すればいいのだから、その個人が自らカウンセリングを選択できるようなセイフティーネットを考える方が自然)、ところがここにおかしな問題が介在し始める。
『学校職員の雇用問題だ』
現在少子化で、猛烈な勢いで学校は倒産してもいい状況で、余剰人員となる教職員の雇用問題を考えてもいいぐらいの背景事情にあって、学校は「進学率などの数字を巡って競争下にある」。
それを証明するように、昨今話題になっているのは学校の単位偽装である。

つまり学校にとって、現行生徒は企業としての学校成績を担保するための従業員のような位置付けにあっあるので、本人の自主性から何かを学ぼうってな場所には最初からなっていないのだし、同時にそんな豊かさ(興味のあるものならどんなものでも学べるようなパフォーマンス)が無い学校に個人が何を期待するのか?
進学までの通過点でしかない、
そこで『クラス運営』する必然性が一体どこにあるのか?
友人関係が円滑じゃないと参加できない行事があったり、クラブ活動があったり(それも場合によると進学のための内申として必須化しかねない)「人間関係ゲームにも同時に成功しなければいけない」。
一体そんな面倒な会社、日本の何処を探せば存在するのか、

これほど意味不明のストレス強迫のある組織は現在『学校だけ』、
これは異常だ。
そもそも学校という組織が一部思想的左翼の影響下にあるって部分も「雇用問題」における在り方として足を引っ張っているのかも知れないけれども、事問題は当事者意識としての時代錯誤(教員は一般社会の現在の在り方を知らない)が一番の原因だろう。
ここは学校校長を企業経営者から抜擢するなど、根本的な解体をかまさないと解決しないのじゃないか?
「美しい国日本」でああるとか「愛国心」は別の論議だろう、
posted by kagewari at 13:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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