2011年01月06日

文明論ってものを問い始めてもいいのだろう(1)

心理学と言うか精神分析に頻繁に登場する「文明論としての性(サーガ)」ってものは歴史としての結論出るまでまだまだ先の話であったのだけれど、現代社会の日本は高度先進国という文明社会を享受するなかそろそろ『文明論』そのものを論議し始めてもおかしくない”先の話の端っこ”に到達しているのだと考える。
(ここは高齢化社会では無く”高寿命社会”の端っこに到達しているのと同じ:”アンチエイジング時代”と表現した方が適当かもしれない→のようにフェイズは変わりつつある)

近代から現代社会にかけて永遠と続いてきた『文明論』であり経済成長なる社会構造に関わる経済論・或いは力動論というようなものは何だったのか、
あたかも”当たり前の事”のように「人類ヒト科の生存競争」を発端とするこの現象は近代においては帝国主義や戦争の時代であり、現代においては民主主義を模索し続ける時代であった。文明論で言えば前者も後者もひとつの経済原則と同じで(前者は独占的覇権主義であり後者は市場主義)、同じ文明論の延長上にあるもので「その枠から踏み出した事は無い」。

なんでもかんでも西洋的「ユダヤ・キリスト・イスラム史観」で見るのはどうかと思うが、近代以降の文明論を思想的に引っ張ってきた一派はここであり、王権の問題であるとか帝国主義はたまた宗教改革としての”フランス革命”の派生としての民主主義など時代の『文明論』の変遷はここの流れにある、
歴史的経緯から『その発端』を考える時、
人類は「エデンの園」じゃないけれども「不老不死と不労社会」を夢見てきたわけで(ある種それを現生利益的に置き換えたのがユートピア思想か)、永遠に続く「9to5の労働生活」を夢見てきたのでは無い。
仮にこのユートピア的幻想なるものの”ネタバレ”をするならば、拡大を続けてやまない経済成長は「地球環境的にも不可能」なのであり(そりゃ宇宙のフロンティアはあるけどさ)、この無茶な話を”もっともらしく語る方便”というのようなものが必須だった。

この方便も合理的であった時代にはあたかも現実としてそれは機能する。
労働条件の改善であったり、所得の倍増や高学歴化、更に言えば福祉社会、
目に見えて改善が確認される時代にこの”方便”は「その時代の現実」だっただろうし、疑う人も少なかっただろう。
しかし経済学でそれを見る場合「時代が変わるクラスの変革」には、文明論をその言葉で言わしめている『技術的なイノベーション』が鍵であって(その発見への努力は個人による個別の努力ではあるけれど)、社会の普遍的な労働の賜物などでは無い。
(社会の普遍的な労働の賜物が現実らしかったのは太平洋戦争に備える日本のような小国が無茶しなければいけないような非現実的な状況においての話)
実態経済の政調局面の分析においても、その最たるものは「先進国による技術移転」であり(これが第三世界が猛成長するコア)、先進国においては「大学などにおける基礎研究」や「社会における情報ネットワークとその応用を含む経済実態」に違いは無い。

しかし勤労を尊ぶような社会心理は(実はその成長局面において外野席の部分であるのに関わらず)、あたかも経済成長のコアであるかのような幻想として”必然”であるかのように求められてきた。
この”仕掛け”は何だったのだろうか、心理学的にそれを考える時、それは「一種のマスキング効果」だっただろうし、新興経済社会における”仮想(強迫的)民度”の形成としての”方便”として求められているのであって、元々の意図は『暫定的なもの』に違いは無い。
■振り返って考えて欲しいのは、西洋がキリスト化する以前のギリシャ文明からローマ時代にかけての地中海文明的な『帝国主義』においては、貴族階級とまで言わないが覇権的争いがあった場合勝者がその成果を収奪する形があったのだし、近代帝国主義においても植民地などのような収奪があった。
本筋第二次世界大戦以降”暴力的収奪や植民地主義”は否定され(歴史的には日米の存在が大きかったように思う)『技術的イノベーションと自らの労働』により前近代的な暴力的手法を上回る経済成長がそれを否定したのであり(方便の成立)、元をただせば暴力的覇権主義などによらない一種ユートピア幻想なる生活を実現可能なモデルの筈で、
間違っても永遠に続く「9to5の労働生活」を夢見てきたのではない。
 ↑
ここの誤解っていうのはカルバン(カルヴァン)派に始まる米国特有の宗教的なバックボーンが関係する『アメリカンドリーム』なる記号も原因のひとつに思う。
(経済的勝者と救済を結合させてしまうと”全員が勝者”となる概念はなかなな整合性をともなって説明しずらくなるので”選ばれし者”のように一部が勝者となるような話に偏りやすい。)
『アメリカンドリーム』の場合勝者がユートピア的生活に到達するわけで、ここを曲解してしまうと市場経済における自由競争の勝者のみがその栄冠を手にするみたいな”過当競争”を半ば幇助してしまうのであって、勝負に挑まないものはその場でルーザーかアウトサイダーみたいな形になるわけで、
■この感覚は日本における『社会適応論』と微妙に被っている。

経済学的に言えば「その前に完全雇用が問題だろ」と思うのだが、
アメリカンドリーム原理主義の視点から見れば、国家が政策的に完全雇用に成功するのは『社会主義的働きかけ』に見えてしまうし、困った事に社会主義や共産主義的政治思想も彼らの思惑どおりに安易な労働運動などを支持してしまったので、(保守派の思う壺というか同じ穴のムジナというか)「確かにそんな話だ」とひとつの幻想というか方便が仮想的に普遍化したワケで、
(労働運動とは別の経済学としての”労働経済学”は賃上げ闘争であるとかクローズドショップにおける雇用確保のような方向より”時短”や”ワークシェアリング”などもっと根本的な”経済成長の成果の分配”を考えていたのであって、社会主義や共産主義政党が同様に賃上げでは無く「更なる時短と未来の不労社会」のような方向向いていたら話は違っていたと思う。)

所謂現代経済学における「労働のインセンティブ」であるとか「米国経済における法外な報酬」であるとか、あたかも競争社会が普遍的に未来永劫続くかのような幻想は「どっかで話が違う方向にいっちゃっている」のであって(原理主義的に言えば”勝者と敗者を選別する方便”であったり)、日本で言えば”戦後”なるものと”戦前”なるものの日本固有の問題(言えば国家総動員体制)を『経済成長』のような記号を利用してその根本をマスキングしたというか、まさにその方便として代理的に反動的に台頭したもので、果たして戦国から江戸時代にそんな事考えてただろうかって素朴な疑問ですよ。
(当時に現代社会並の生産性で”捨てるほどの農業生産”があったならば→「秋祭りが3ヶ月に延長」じゃないけれども富の分配というか”受け取り方”ってものは違っただろう)
欧州における長期休暇であるとかってのは、少なからずヨーロッパなる国家群が帝国主義時代に獲得してきた習慣って部分もあるのじゃないだろうか。
(キリスト以前の地中海文明の時からある意味切れ目無いんだし、)


ことほど左様に現代社会の『文明論』は、文明論なるものの始まりからかなり乖離したところにあって、”一部”の経済成長主義を正当化する方便と化してしまっていて、
ちょっと物事をシンプルに考えてみると、
「世の中便利になって人類ヒト科の暮らし向きも随分楽になったが労働形態は9to5のままである」なんて話がある筈も無い。
事実日本において『週休二日制』が定着したのは昭和の時代だけれど、この時社会は大きな変革を感じたものですよ。
本来『男女雇用機会均等法』も別の意味(米国60年代における”ピル解禁”のような)で受け取られるべき話だったように思うんだが当時の日本にはその民度が無かった。
(むしろ男性社会の保守的マチズモを刺激する話題みたいな扱い)

話は飛ぶようだけれど、昭和における行政改革と言えば『土光臨調(第二次臨時行政調査会)』だが、


ちょっと長くなってきたので
<つづく>としますか。


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posted by kagewari at 04:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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