東京は今日一日雨のようで、ほとんど傘をささない(仕事の関係でさすようになるまでは、学生の頃から公式的には傘はささないと決めていた)俺には苦手な1日になりました。その代わりに感じのいいアウトドアのお店をみつけたので、まいってこいなのかも知れません。
今日気がついたのだけれど(そもそも傘をささない宣言の理由のひとつでもある)「雨がほとんど止んだ状態で傘をさすひと」随分減りましたね。これ俺の錯覚かなぁ、、
これは俺の中では非常に重要な問題なのです。
傘をさす行動がほとんど、「自動的に行われて、意思の関与がほとんど無い事があまりにも多い」と感じていたからです。「既に雨が止んでいるのに、傘をさしていない人とすれ違わない限り、どんなに歩道が混んでいてもさしっぱなし状態」ここにも共同幻想の歪みを感じていたのだけれど、、
どう思います?
減っていませんか、ポケーっと傘をさしてる人。
ここが「本人は誰だ論」に被ります、つまりエゴ主体説になると、何か意識的に行動してる時がよっぽど本人、となりますが、俺はこれに疑問を持っています。「気の向くまま」にエゴは関与しないからです。ではこの「気の向くまま」は完全に無意識なのか?と考えてみると、そうとも言えません。
エゴが「ハイハイ」とついていくところがポイントなのかもしれません。
うまく言えないのですが、「ま、いっか」というか、、
視野には入ってますよね、エゴの。
「ポケーっと傘」ではエゴが停止しています(共同幻想が完全に代理しているからです)、この違いは何でしょう。
『エゴが何かに代替しなければならない理由』
ちょっと自己嫌悪で、抑圧された無意識の葛藤を「反動をつけたエゴ」がエゴに取って代わるのと似ていますね。
次回はこの辺を考えてみたいと思います。
2004年05月09日
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