「選択」って一見「選びたい放題」にも思えるが、世の選択はそういう意味ではない事は誰でも知ってる事だろう
だいたいが「選びたい放題な選択は『選択』ではない」何故って選択の余地が無いからだ(これは逆説)、「何でもの1では比較が行われていない。」
選ばれなかった母数が無限だと、何を選ばず、何を選んだのか、その結果を手に出来ない。
“何を選ばず、何を選んだのか”
この狭間で、選択が行われる弾力的な部分が「余地」
選択は自我の形そのものでもあり、思考する自我の『結果』とも言える。ここが皮肉なところで、実際の行為は選択の後に行われるのだが、自我の結果は選択そのもで、結果は運任せ風任せだと考えてもいいぐらいの筈だ
そこで、良く起きる誤解が「結果を伴う選択の思考」って奴で、あんましこいつに偏ると『偏る』だから『自我も偏る』、
@選択において結果に拘ると選択が歪む
こりゃなんだろうか?ここで、「現実的は現実では無い」って無理のある言葉が形になってるとこがわかってもらえるだろうか?
結果についての自分の自我内の論争は余地の部分で既に行われているのであって、結果に拘るという思考は「最初から選択肢を極端に狭くする」・・・・
これどちらから見ても矛盾、
結果に拘れば選択ではなく、結果を想定するから余地がある。これはおそらく同一のもので、結果に拘らない選択はあり得ないのだから、選択が行われたとしたら、その選択に結果についての前提が無いワケが無いのであって、選択の後で「結果はどうだろう」と思ってしまうのなら、それは100%杞憂だ。
し
か
し
、
選択があまりにも、、だとこりゃ現実から離れる。
つまり、現実から選ばれればそこに選択は成立していて、現実以外から選ばれれば、それは妄想だと言っていい。
て、ことは
妄想か杞憂か、この幅の中に選択があるのであって、ここで振り子のように思考が揺れれば「反動」、振り子がいつも同じ所に妙〜に止まっていると「二次的利得」か、
面白いところは、余地こそ思考なのだから自我とは、こうときまっていないもので、右左と動く余地であるのだから、自我とはいつも形を変える流れだと言っていい(ここが「性格ってものは自我には無い」の意味)、それが固定的な時それは不自然な現象なのであり、何かこう無意識の意図でもない限り自我が動きを止める事は無い。
自我が左右に揺れなくなると、同時に時間も止まり、その時刻は葛藤形成時のままの同じ時間が経過している。「過去が追いかけてくる」というのはそんな現象をいう。
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