2008年12月31日

『自我バランス』

力動論を始めようってのじゃないので、勘違いしないでください。
ま、似たようなものか(笑

何の話かというと、
自意識と無意識領域(前意識的とか超自我含む)とのバランスの話、
表現で言うと「安定している」とか「不安定」とかありますよね
この体感は一体何の話なのか?
俺の好きだった某小説には「コップに水を一杯に入れてこぼれないように歩く事だ」なんて台詞もあった。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」なんて言葉もある、
坊さんは「煩悩を捨て悟りを開く」なんて考える。
何やってんでしょうね?

「バランスを維持している」

そして精紳分析的な意味で自意識台頭のための言語的アプローチ「デ・コード」とか「デバック」とか「カウンター」。カウンターなんてのはそのままウエイトの概念(質量)みたいなものだし、意味合いとして”反動を抑制するための現実質量”な意味でも使っている言葉です。
何がどうバランスしてんのか?

そして、その反対に「喜怒哀楽」って世界もあるがその世界を「不安定」と呼ぶ人はいない。
何が一体どう違うのか?
強迫的興奮がたとえ脳内で快感分類であっても、認識の主体である自意識にとって不快であれば、その”不安定な様”は歓迎すべきことじゃ無い。
まさに「不安」、
「不安」と「喜怒哀楽」の決定的な差は、生理的体感と自意識認定との一致性の差かもしれない。
”幸せな人”とか”幸せの近い人”なるイメージには「喜怒哀楽の豊かな人」って背景もあるだろうし、これがナチュボーンで成立するには「シンプルで処理速度の速い自我」が必須になる。そもそも『自意識の仕事』には動機形成と行為の完結確認としての快感認知等、当事者責任の成立以外に山ほど仕事はあるのであって、その速度が速いのだから”些細なことや繊細な動きにも快感を発見できる”様子が「喜怒哀楽の豊かな人」を成立させる。
言葉としては「馬鹿に付ける薬は無い」も同じ意味、
※そもそもオルタナ定義的に「馬鹿や変人」等の概念はネガティブというよりむしろポジティブに属する(ここに道徳的蔑視等の興奮があれば強迫的認知を疑ってもいいぐらい)。

一般的には自我ロジックは大人になるにつけ回路が複雑になるので、この速度は劣化するんだけれど、バーターとして「大人の快感」なるジャンルを手に入れて”いってこい”となる(典型的なフェーズは思春期に獲得する行動の自由に起因する動機形成)。
大人の快感には単独者思考における”オルタナ”や”アイデア”が含まれてくるので、「オルタナ名人」とか「アイデア豊富な人」であれば外見上現象としての「馬鹿に付ける薬は無い」と判断がつかない場合もあるけれど、厳密に言えば構造は大きく違う。
※お笑い芸人さんなどの内面における”ナイーブ”は同構造による、

話を
>「不安」と「喜怒哀楽」の決定的な差は、生理的体感と自意識認定との一致性の差
に戻してみると、
『生理的体感と自意識認定との一致性』の大元は「動機形成における企画意図とその興奮予測(快感予測)」のようなシミュレーションに負うところが大きくて(”目論見どおり”等)、強迫構造の介在がなくても動機形成により企画された行為の結果がシミュレーションの範囲を超える事も割と頻繁になる。
この場合判断領域の関連付けの”幅”が広ければ即時にその予測外の結果も”企画延長上”に認識されるので(後追いシミュ)こういう現象を「懐が深い」等と呼ぶ事になる。
この場合の「生理的体感と自意識認定との一致性」を担保する当事者意識の所在(や所有)を『自己責任の完結』と言い換えても間違いじゃない。

ここに強迫的認知が介在する場合の差だけれど、
もっぱら動機形成の過程の自由度(主体は自意識)が抑圧構造で大きく阻害されると同時に、強迫的認知の仕組みは仮想トラウマとも呼べる”記憶の雛形”が深層心理にあるため、シミュレートが行われているようで実は固定概念化している『結果(記憶)』に、見かけ上ステレオタイプな動機ジャンルが関連付けられている事になるため(動機形成のプロセスが大幅に阻害される)、結果の属性の大半は「シミュレーションの範囲を超える」にも関わらず「強引に固定概念化している雛形との関連性が保持される(必要があれば認知される事実関係が無意識に歪められる事も珍しくない)」。
構造として、結果の属性の大半は「シミュレーションの範囲を超える」という現象が企画された行為の過半に達してしまい(根本的問題として幼児のデフォルメが介在する『雛形』はモデルとして現実から乖離している)、恒常的に「生理的体感と自意識認定との一致性の差が拡大する」。
これが不安が構造化する原因なのだと思う。
現象で考えるなら「快感(興奮)は近いが幸福(馬鹿)が遠い」

根本的には強迫的動機形成の問題の解決(ドキュメンタリー的内省による雛形の解体と歴史の再認識)が本丸には違いないのだけれど、自我バランスとしては「いかに生理的体感と自意識認定との一致する行動企画の回数を増やすか」がテーマといってもいい。
これどうやってやるのかって言えば
動機形成における事前のシミュレーションや企画意図を”自意識リード”で確認していく事に尽きる(これは場合によるけれど”事後”でも構わない)。
難易度が高ければ「企画される行為そのものを単純で実現可能性の高いものから意図的に選択する」なる戦術もあるので(縄跳びとか体操やちょっと見ナンセンスで極端な行動企画を含む”ガチで意図的な動機形成”)、難易度そものはそれほど大きな問題にはならない。
逆説的に言えば「馬鹿(幸福)とも思える現実を自意識マターで企画(動機形成)すればよい」となるからだ。

そりゃナンセンスにも思える行為を企画するほど人生は暇なのかと聞かれれば、
メンタルな問題が”先進国特有の現象”であることがその答えになるだろう。
逆さまから考えてみるなら、人類の種類としての夢のひとつが先進国(仮想としてのエデン)である時、そこで馬鹿のひとつも思いつかなくちゃ何のための桃源郷なのかって事にもなるのだし、単独者としての牧歌的な幻想なるものが、「単なる馬鹿話」じゃないって話にもならんでしょうに。
そもそもが、単独者の概念を思いついた初期の時代(紀元前)、偶然にも似た事情で頭角する”先進国現象”は、強大な国家が世界に君臨しその一部支配階層としての貴族的賢者が”できちゃった”ところに始まるんであって(そういう意味じゃギリシャ哲学時代やらも帝国主義的封建支配やら発展途上国からの収奪や奴隷制等のバックグラウンドと切り離して考えるのもナンセンスであって→特別彼らが賢人なのじゃなくて賢者の地位(暇)が社会構造上成立していたと見るほうが正しい→彼らが個別に賢いなんて現象は存在しない)、こいつを『経済学』なる錬金術によって実現したのが『先進国』なのだから(この錬金術の成立のために人類は2回の世界大戦を必要とした)、
馬鹿みたいな話じゃなくちゃ嘘でしょうに。

社会の側の話の理(共同幻想言いだしっぺ)の埒外で”勘違いの連鎖と複合”が「社会学的セルのしての個」に発現するのは自然現象なのであって(個から見れば所詮共同幻想としての幻想なのだから)、むしろ人間らしいことなんじゃないかとも思う。
何しろ社会全体の企み(たくらみ)に、各人が共同謀議よろしく関わるなんて事は無理なのだし(権力構造としてそうなんだから)、先進国がその政治的結論として「民主主義」なる落し前を必要とするのは、単独者の頭角に対してその”確信犯的謀議性”を”当事者意識”として必要とするからで、ここで起きる現象は=賢者のマスプロダクトじゃなくて”賢者が概念として崩壊する事”であって、
(ニーチェも一安心みたいな)
だから「馬鹿馬鹿しい」なんて言葉がキャッチになりませんかと、
存外このキャッチはいい線いっているのじゃないかと、
ここは俺の個人的意見だけれど、そう思っている。
言葉として実に矛盾しているのだけれど、個として賢くありたいと考える事は社会的には馬鹿げた事(どうでもいいこと)であり、だからこそそれが賢くあること(自意識マター)の論証なのだろう。
つまり「社会の幻想破りによって現実化(実存)される個(単独者)は、個として”幻想(=主体は被(こうむる)側)”の代わりに”夢(=主体は抗(あらがう)側)”を造っていい:馬鹿である」というですね、何言っているのかわからん話が”いい線”でしょうと、
「どうでもよくないことなどない」
言葉として「どうでもいいことばかり」な賛歌にも読めるし(笑
「どうでもよくないことがあっちゃいけない」とも読めなくも無い。
メタファーとして考えると随分インチキ臭いようにも思えるけれど、
外郭から見るならそういうところに”何が何”って気ままな余地があるのじゃないだろうか。
posted by kagewari at 16:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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