2008年08月26日

社会適応ってのはそもそも何だろね(2)

前回は日本特有の「社会適応」なる記号の背景と共同幻想のからみの話になっている部分を引きついで今回は精神分析としてこの記号の意味するものを深いところで考えてみたい。
言語として”適応”の部分を抜き出してみるとそこには「何らかの対応や変化」を前提としているのが汲み取れる。モデファイや調子を合わせる形で”応じる”話なんだけれど、この話は常に結果と目的が倒錯しがちな概念で、「適応すべきマターか否か」は自意識の自己決定を前提とするから本来「どっちでもいい」のが基本になる。

与件として「社会適応」が目的化されるのは自意識選択が「社会協調型の共同幻想導入自我タイプ」である場合に限った話で、この場合も本筋としては「ナチュボーンに協調型人格となる経緯で自我のバランスができちゃっている=特別メンタルな悩みが無い=所謂記号としての普通の人」を”説明する様子”なのであって、
なんだか知らない内に(特にこの部分は日本特有)「社会適応をデファクトスタンダードであるかのような誤解」を生んでいる。

この話を又ぞろ”誤解”されちゃうと困るんだが、
「社会適応」を否定的に見ているのじゃない、「特別関係無い」と重要視する必然性がどこにも無いって話。
社会をネットワークとして見るなら、そこでコミュニケーションが成立していれば社会と個人は既に有機的に構造化しているのであって(この辺都市計画や建築におけるメタボリズムともかぶるとこだけれど)、そのネットワークに対して”最適化”する必然性は根本的に存在していなくて、最適化が必要なのは「会社のセキュリティー重視の閉鎖的プライベートネットワークのような排他性のある個別特定ネットワークに限った話」になる。
そもそもネットワークにおける言語であるとかマナーであるとかの部分は特段”適応”という概念を当てはめるような話じゃないし(知識とか経験的要素)、むしろ重要なのは「コミュニケーションにおける能動性や自立性」となる。

となるとだよ?
主体論的には社会とコミュニケートする個別性が実存しなければ「誰が何をコミュニケートするのか」ってなコミュニケートそのものの内容が担保できないのだから(コミュニケートのためのコミュニケートじゃ共同体無意識みたいな”いっちゃったオカルト話”になる)、そのコミュニケートの結果そのものが実存し無い事になる。
これじゃ意味が無いわな、
つまり「社会適応」なる記号性は”ナチュボーンの普通の人”にしか存在しない概念で、ここを説明するのはいとも簡単なんだな、
あたかも汎用OSをインストールされる形で一時的に自我の基本構造を共同幻想に依存すると(後に各人が自分仕様にカスタマイズするんだけれど)、「それはベストな合理的選択ですね」とそれを是とする概念が与件化されるのであって、それってあれですよ
「生まれてこの方メンタルな悩みを感じた事の無い人達だけで通用する特異事例」となる。

ここでもまだ誤解があると思うので注記すると、
会社で仕事するだとか巷で買い物するとか、友人と遊びに行く等の行為に「社会適応は無関係だから」。
ここは”コミュミケート”って部分の方が上位概念であって、そのスタイルのひとつに「社会適応型」ってのがあるだけで、そもそも”コミュミケート”って部分で言えば上記のように”能動性や自立性”って形でコミュニケートの実存そのものの方が重要になる。
そりゃそうですよ、「あなたは適応してますかー?」なんて投げかけ自体には何の意味も無い。世の中「社会適応ゲーム」やっているのじゃないですからね(笑
結果としてどんな仕事をしたのか?友人と何を語らったのか?こういう事と”調子を合わせる行為”は場合によっては二律背反である場合も多いんだし、

と、ここまで話しもてまだ”誤解”があると思うので更に注記すると、
「じゃ何ですか?ナチュボーンな記号としての普通の人じゃなければ社会協調型人格は選択できないのでしょうか」なる話もでてきそうなのでここ説明しますが、
”共同幻想のコア”ってのは『文化や伝統』です。
これ来日した外国からの異邦人だって学べるのであって、自意識選択として「この日本や日本の文化が好きです」というポジションから「普通の人は美しい」という美意識を基点として意識的に(幻想ではなく)ロジカルなテーマとして捕らえる事はできるのであって(のように別段親関係が”普通の人”である必然性など何処にも無い)、各人の美意識や哲学論のレベルの話になるワケですよ。
当然そこには『日本や日本の文化』なるものをひとりの歴史家としてどのように考えるのかなる個別性(能動性や自立性)がなくちゃいけないから、そこで話はぐるっと繋がる。

話を単純化する上で、車に喩えると、
「工場の生産ラインでトランスミッションの汎用プログラム導入マシン」は、他とのバランスもあるから汎用のスタンダードソフトをベストと捉える概念をもって合理性がある。
「工場の生産ラインでトランスミッションの設定を”カスタマイズ・オリジナル”」と定義されているマシンは個別にそのマシン個体の性能と照らし合わせてベターなプログラムや(完全マニュアルって手もある)操作性を自立的に組み込むのが自然で、特別「汎用ソフトがベストである」等という発想は選択肢の自由度(自分自身への”適応性”)を拘束(強迫)するだけで足枷でしかない。
そして言うまでもなく「イロイロ検討した結果汎用ソフトがヤパりベターね」な結論だって十分考えられる。
より深い部分で考えれば『車』なるものは、汎用ソフト導入の一般販売車両がベストである等と言う話があるワケないのであって、所謂スーパーカーであるとかスポーツカーの最上位モデルはガレージメーカーや個別ブランドのスペシャルモデルになる(専用ソフトでコントロールするのが自然)。極論F1グランプリマシンに工場で開発された一般販売車両向けソフトが役に立つ事は”むしろ稀”だりうし、戦車なんてーなスペシャルモデルになれば用途からして違っているし。

しかしですよ、オリジナルマシンはメンテナンスやら何やら”手がかかって”コストもかかって効率も悪い(民主主義のように)
一般販売車両はメンテナンスフリーほどの安定感を持ち、低コストで大量生産できる上性能も均一である(社会主義のように)
どっちが上とかどっちが下とか全く関係無いのですよ。それぞれの持ち味があるのであって(個別に高性能化に突出するならオリジナルマシンの方がパフォーマンスレベルは高い)、それは”どんな車を求めるのか”ってニーズによって違うワケだ、

同時にコメントすると、F1マシンは世界でワンメーカー2台とかしか存在しないので「とても孤独です」なんて話にはならない(個別性と協調性とではコミュニケーションのスタンスそれ自体が違う→F1は乗る人は少ないが関係する人はレースの観衆含めて膨大な数になる)。
加えて”オリジナルマシンの方がパフォーマンスレベルは高い”なる部分を引き出して考えると「社会適応」なる”リミッター”がかからないので、『漠然とした仕事量』はオリジナルマシンの方が上で(メンテナンスに時間とコストがかかるのでトータルでは似たり寄ったりでしょう)、「大前提として”社会に貢献する”なる概念を上位に認知している人にとっては(それこそ社会適応を重要視する人なら鉄板で上位概念になる)オリジナルマシンの仕事量の多さは見逃せないポイント」の筈なので、オリジナルマシンを固有にナンセンスと考える発想は、その発想がナンセンスだって話。

いかに、いいとか悪いとかって話(そもそも心理学的にはこれがナンセンスなんだけれど)に「社会適応」なんて概念が無関係なのかって事さ。
適応って言葉で言えば心理学的に重要なのは何かといえば
『現実適応』である
ってのは言うまでも無い。
posted by kagewari at 21:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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