2008年06月24日

強迫と道徳

そりゃ心理学って話で言えば『超自我』といった方が話が早いんだけれども、フロイド的造語とも言える言葉を使ってわかりやすいのかって、そこがまた「なんとなくわかる人同士」だけの事にもなるのでテキストでも滅多に『超自我』なる表現は使わない。

そこんところが以外や以外一番大事なのかも知れないとも思っている、
何故なら暗韻のある固有名詞ではなくて、流れ(文章)で認識している方がその背景含めて”それ以上に見えいてくるものがある”。
特に「強迫と道徳」の関係は”道徳”なる言葉を使った方が、その力動的位置関係やら強迫の構造化プロセスも「より見えやすい」。

単純な話「自意識をやり込める(抑圧)するぐらいの力を持つものは、道徳・倫理野的(んな部位が脳にあるワケじゃないが)概念以外に存在しない」のであって(そうじゃなきゃ”抑圧する中の人は誰”って論議になる)、「○○に決まっている」的概念がやたらと多かったり、強迫的認知のベースラインは”ステレオタイプな判例主義”であるのも事実で、
判例主義的(自我憲法とでも呼ぶか)正統性根拠無しに存在し得ない「道徳・倫理野的ロジック」の関係性やら主謀性って部分は説明する必要性も無いぐらいに明白だ。

実際個人心理学における”コンプレックスの発見”の存立基盤は象徴化(この瞬間原形足る対象から乖離し記憶の中で自我の一部となる)された権威性なのだから、それこそ「ニワトリが先か卵が先か」って話ぐらいにその関係性は深い。

言い換えるなら「象徴化され現実から乖離する権威性(無意識)は=過剰に道徳・倫理野的ロジックとして自意識に認知される」となる。
結果として、悩みの全てには無意味な”いい悪い論議”と”保守的抵抗(判例主義の防衛)”は欠かせない部分で(必ずといっていいほど自我の形はそのスタイルになる)、それが認識として表面化した時の特徴(必ず論理矛盾を内包する)としては、
■「人間関係等の相対的な”問い”を悩みとして考えている時に、宗教論争のような”いい悪い”なるロジックが”お呼びでないのに”圧力をかけてくる」な流れになる。
どういうことかって言うと
「物理や化学の法則性を認識しようって時に”善悪の論理”でそれを強引に解釈しようとその問いに挑戦しているようなもの」であって、
こういう姿勢を俯瞰で見れば明らかに「先に答えありき」の(”地球は平面だ”的な強引な論証と同じ)意図的な偏向であって、一見「答えがわからなくて悩んでいる」ように見えるんだけれど、その実は「どう考えても期待される答え(地球は平ら)に現実が結びつかない事への苛立ちであって、果たして本来の答え(地球は丸い)を期待しているのかと言えばNOである」という致命的な矛盾を抱える事になる。
あたかも「答え(地球は平ら)は知りたいが、本当の答え(地球は丸い)は死んでも聞きたくないし本当の答えなんて世界は”間違っている”!」な状況がメンタルな意味での「強迫的に悩んでいる」的構造になる。

この『強迫』なる言葉も別段『脅迫』を使っても全然問題無い、
それぐらい「自意識が、自分自身の偏向した道徳・倫理野的ロジックに恫喝されているかのような状況(感情的に破綻すると、恫喝者の顔が表に出るのも珍しくない)」が、強迫ってもので、
事抑圧された自意識がテイクオフする状況ってのは、自我形成における『反抗期』により実証される。
「無茶をする」とか「今時の若い者は」とかそこにある世界は、ベタに言えば”反道徳的にも見える(理想論的)チャレンジ”であって、
反抗期における”無茶”が、反抗期の収束とともに消失するのは、「一過性且見かけ上の反道徳性は”カウンターとして必要だった”」って証明でもある。
(このカウンター的アイデアに自意識的な確信があれば、そのアイデアは解消する事無く”単独行動型人格”のコアとなり→単独者としての人格選択の可能性ともなる)

「敵は本能寺にあり」的に言うなら
「強迫は道徳に在る」となる、

ここで間違っちゃ困るのは、
自意識による独立した道徳的な認知(”美意識”)と、この強迫性道徳は全く別物だって事で、確かに現象として道徳的な認知のある自我は、自意識共犯的に強迫性道徳に対して「取り込まれやすい」かのような部分を見せる(”弱み”と言った方がわかりやすいか)、相対的な抵抗力の弱体化を見せるため(「大人しい」とか「物分りがいい」とか「よく気がつく方だ」等の自意識における個人的美意識としての特徴は、自らの強迫性道徳に対して”結果として”非常に脆弱な要素となってしまう)のだけれど、これは強迫とは別物。
これを見分ける方法は”可変性”にある、
自意識に依存する個人的美意識は「その時その時の考えやアイデアにより変化変遷する(現実に対応していく)」もので、言い換えれば”論議の余地がある”というか”よりそれを追求する研究心やら探究心により担保される”ものであって、原理主義的(或いは教条主義)戒律のような強迫性道徳とは完全に別物。

実際に強迫的認知の偏向性(誇大妄想であったり過剰な象徴化による権威の神格化等)を、現実適応(事実上解体)させていく形としての『抗(あらがう)』過程においては、この自意識に依存する美意識こそが抗戦の旗印(反抗期にカウンターかかると”理想論”)にもなるので、認識においてここの切り分けを間違うとえらい事になる。

俺が巷の論議(心理系の人達含めて)に最も違和感感じるのは、「あたかも社会適応する結果が解決であるかのように認識されている」部分で(ここは集団心理における強迫とも呼べる共同幻想的認知なのは明らか)、そういう認識だと強迫性道徳と自意識における美意識を切り分ける事が事実上難しくなるばかりでなく、強迫的認知の背中を押すようにステレオタイプな正統性を強調するようなもので、認識としてこれほど愚かなものは無い。

どうにもこの辺のフロイド心理学上の論理が、「不道徳な学問」であるかのような(これも救いようの無い共同幻想特有の勘違いであり誤読なんだけれど)誤解を生んで、心理学そのものが少々”ヤクザな学問”となっている背景でもある。
posted by kagewari at 06:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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