2019年08月15日

「道徳的論議に意味がない点をくわしく述べよ」

話しのキモは
「そもそも道徳ってのは『共同幻想』の仲間内だけで通用するローカル言語」であることで、
これに対し”普遍的”とは言えないが「哲学的に道徳的であろうとする個人の美意識」はまた”別の論議”であることがポイント。

前述両者が混同されるので話が複雑になることが多い。
(なんとも歯がゆい話なんだが”同じ道徳でも違う”ワケだ)


■ということで両者を整理してみよう
●前者「この場合の”道徳”とは『共同幻想』の論理に過ぎない」
『慣習的道徳』のようなものですよ。
冠婚葬祭の儀礼含む「そういうものでしょ(どうしてなのかは不明)」に属する道徳論で、
その意図は
「従えば『共同幻想』に承認され、否定するものは『共同幻想』から否定される」という概念。

すごくわかりやすいパラドックスとして
有名な”小学生言語”がありますね
 ↓これです
「どうして人を殺すのは悪いんですか?」

(※この問いかけを調子こいた小学生が好むのは、一般の『共同幻想』適応系人格の大人が「そういうものだ(どうしてなのか考えた事は無い)」という『共同幻想』ワードにおける”道徳”実態は『慣習道徳』に過ぎず、答えに窮してうろたえるに違いないと反抗的《仮想『単独者』的》洞察でその矛盾に気が付いているからです。)


●後者はいうまでも無く「哲学的道徳論」です
『道徳』の本質はこちらで(ネタ元は朱子学であるとか仏教哲学など様々でしょうか)
「あるべき道筋を(個人の立場から)考え続ける、学び続ける行為」です。
逆説的にこの本質的道徳は(考え続けるものだから)
「何が正しいとか一概には言えないが、俺はこれが正しいと(今)信じる。故に、この事象はこうあるべきだ。」←のように中身を語れる概念の事です。
 ↑
勿論、個々に考える事なので「100人いれば100通りの見解がある」

※ちなみに前者は「『共同幻想』の数だけ道徳にも個別の種類がある」


<<<さて、話をまとめるとだよ>>>
お題は「道徳的論議に意味がない点をくわしく述べよ」ですからね
何らかの事象に対して道徳的論議して意味あんのか?ってことです
仮に本質的道徳論の話だったら?
それか各人各様の哲学的道徳論が飛び交う事になるので、
テーマとなる事象の見立てから離れ、外野席の「各人各様の道徳論争の水掛け論で宴たけなわとなるだけです」。
仮にさ、検察が起訴状作成の時に法的立証はさておき、この犯罪が道徳的にいかに悪いのかの表現に終始して個人的に「俺の道徳はこうだ、私の道徳はこうだ」とさっぱり起訴状がまとまらなかったら本末転倒でしょ?

●犯行の道徳的評価は判事や陪審員が”第三者”として附則的に加味することはあったとしても(判決大枠に関わるのでは無く、付随する情状酌量部分など)、
公判のしょっぱな証拠評価やってる時に、
「ここはいいと思います、ここは悪いと思います」みたいな小学生みたいな話やる大人はいないのだよ(そんな暇じゃない「現代なら生徒会でもやらん論議だろ」)。

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posted by kagewari at 19:11 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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