2018年06月23日

「妄想とは何か」

●「脳の妄想機能は芸儒家なのか?」
いきなり何かって書き出しですが、、『妄想』を複数のの角度から論証してみたい。
(勿論そのひとつは先日連載した「空耳と電波」である←これは後述)

最初の角度は「オカルト現象」から
参考となる記事がある
大宅賞作家が記録した3・11後の「霊体験」
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20170809-OYT8T50014.html?from=yhd
<一部抜粋>
3年半にわたる取材を通してわかったこととは何か。「最初は気づかなかったのですが、霊体験とは『グリーフケア』(悲しみのケア)ではないかと思います。グリーフケアの『ケア』とは、『セルフケア』の『ケア』です。自分がいちばん納得する物語を創(つく)り、自らをケアする行為ではないでしょうか」と指摘。

「『霊体験』そのものは事実かどうか証明できませんが、体験した当事者にとっては『事実』です。彼らの体験を非科学的と否定せず、普通に受け止める社会になってほしい。人間は合理性だけで生きているのではない。非合理的な存在でもあることに気づいてほしいと思います」
重要なポイントは「不確定未確認な事象でもそれが当該人物には明解な事実となる」可能性です。
 ↑
引用の「霊体験」の是非を云々しているのではありません(そこは前述レポート執筆者がドキュメンタリー著作家としての見解に同意)、
●そもそも論として唯幻論的世界を生きるこの世の生物は、脳で再現される電気信号情報を”現実”として認知し、タイムラグのある「少しだけ過去を生きている」。
●言うならば「脳内で再現された仮想現実以外の方法で現実を知覚することはできない」。

●さらに”事実認定”とは(裁判所がある理由だが)主観による現実とは”別物”である。
(最近報道によく登場する第三者委員会もそれ)
報道関係で言うところの「裏取り」の話であり、この世に裁判における事実認定がある理由です。
仮に関係者全員の証言に齟齬が無くても尚、それだけでは事実の検証とならない。
被告原告いずれか一名の証言があれば、それをそのまんまカーボンコピーしてノーチェックで最高裁判決になるなんて世界はこの世に存在しない。
(今回引用のドキュメンタリー著作家の着眼点も同じ)
それらの証言から「そこにあった事実とは(ロジカル的検証を経て)どう語られればもっともそこにあったもの起きたものを表現できるか?」
描画や写術や詩的情緒要素などを第三者が客観的に検証し(裁判なら犯人の特定だけでなく被害感情や犯人の情状酌量なども踏まえ)、

「霊体験」が本当に外的事象の影響によるものかを云々することが中心では無く(個々人にとってそれは疑いようの無い現実であることを前提に)、
「そこに起きているものはなんだったのか?」を思考するものである。

■ある意味その作業は精神分析でも同じで、
精神分析は登場人物の心理的背景や傾向、更に動機形成の点から、
「そこに起きているものはなんだったのか?」を構造的に分析するものである。


■■■<話は個人レベルの”現実”論に戻るけれども>■■■
極論
「妄想とは何か」と「(個人にとっての)現実とは何か」に”区別は無く”同義語である。
だから生物は睡眠中に『夢』を”見る”ことができるのだし、
「脳内で再構築された脳内情報(当人はそれを現実と認知する)」という点で上記三者は同じだからだ。

話は60年代になりますが、
当時流行したサイケデリックなる音楽において、ドラッグをやると創造性が刺激されるのだとばかりにかの有名なビートルズでさえマリファナなどを手にした(日本では井上陽水先生なども)、
妄想と現実の狭間のナントカでって取り組みでもあったのだけれど、
現代の脳科学や心理学から考えていけば(脳は記憶をザックリとした情報に解体圧縮して適当に格納するので→故に肝心の試験の時に思い出せない)、脳内に分解圧縮格納された情報は既に情報量的にはおおよそ当時見たままを再現”できず”、
 ↓
●何故一般人は絵が下手なのか?の理由そのまんま
幻想的な妄想なのかって見えるそれは、
「これから料理を作ろうと買い揃えた食材を(手順と関係無く=論理性無しに)鍋に乱雑に投入し(カオス:混沌)その状態で「これは何の料理?」と自分に問うようなもの」なのであり、
(デジタルの世界で言えば、画像情報として再構成されたDATAを見るのでは無しに、この論理機能をスルーして、デジタル情報そのまんま01010101110011←これを見て”何?”とやっているようなもの。)
 ↑
やれ臨床ナントカが統合がどうしたとか言いだすアレのネタ元ですよ。

■何故予めフィクションだとわかっている「映画やドラマや音楽で人は感動できるのか?」
(付け加えると「自分がプレーしているワケでも無いのに何故スポーツ観戦で興奮できるのか?」)
そりゃ〜
当人の脳内再現領域に”それ”が論理的に再構築できるのであれば、
「それは疑う余地のない(個人の自我にとっては)現実だから」です。

なので(ネタに応じて)自我が再構築可能な範囲に個人差があり、
そこが「同じ映画でも感動する人しない人の差異が発生する理由」です。

あれれ?
だ  と  し  た  ら

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posted by kagewari at 17:47 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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