2016年09月28日

気になる(14)中央線

さあ久しぶりの「気になる」ですが、
今回は東京から「中央線文明」シリーズとしてお伝えしようと思います。

しょっぱなは某駅幹線道路沿い商店街から
uraogisugi.jpg

どうなんでしょう。
占いで「神秘的な」ってうたい文句はアリなか、
それって現実世界の今後を占うのでは無く、神秘的現象の可能性を占うのでしょうか。

そのまま読むと「占いの結果は神秘的内容なので現実の話じゃありませんよ」って言い訳みたいに聞こえてしまうのですが、それは私だけなのでしょうか…。
「気になります」



そして次は某駅構内における絵です
asajrnokaki.jpg

「悪質な場合警察に通報します」って、、何罪となるのでしょうか。
おそらく駅長さんがハト他鳥がよってきちゃうのでご飯をここに置かないでって意図なのだろうと思うのですが、
何が「気になる」って、鳥にご飯をあげるとか早朝に自宅前であるとか庭になど昭和ではよくみかけた風景ですが「通勤ラッシュの朝に駅のホームにご飯を…」、
一体どのような人物がどのような意図で思いついたのか「気になります」。

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posted by kagewari at 09:09 | 「気になる」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月26日

『共同幻想』論と戦争

「面白さ」や甲斐論の続きです。
果たして『共同幻想』適応人格の場合はどのような世界となっているのだろうか。
話をわかりやすくするため今回は極論で進めます。

■その代表例が”戦争”です。
「現代戦においては国家総動員の全面戦争は無くなった」←ここにも関わる話です。
(故に現代先進国は『共同幻想』崩壊過程にあるのですから。)
逆に『共同幻想』全盛期の近代から昭和までの時代は戦争と言えば国家総動員の全面戦争(総力戦)だったのであり、銃後の守りを含めて、『共同幻想』に関わるすべての活動はどこかの線で国家の命運に関わる、あるいは関係付けられるものでした。
エンタメ性という論議の是非はともかく(高校野球におけるアルプス席から田舎の応援会の様子などを想定していただいても同じ話です)、末端のどんな活動も国家的権威の命運に関わる重大事なのである。それが参加における『共同幻想』特有の”甲斐”であり、
身近なところでは地域のお祭り行事において、些末な飾りつけであってもローカル『共同幻想』における絶対的権威であるお祭りの実行において明解に参加している”甲斐”。

注:明治以降の総動員体制的『共同幻想』は完全な明治維新における典型的な捏造のひとつ。
戦国時代の戦に庶民はほんど関係が無く、野球観戦のように楽しみに観ていたという話まであるし、事実戊辰戦争の時上野公園あたりに立て籠もった幕府軍に対し西郷が根津の方角から砲撃するのだが、当時江戸の庶民は幕府の武士を憐れんで炊き出しやらで応援していたって話が残っている(つまり庶民は攻撃対象では無かった)。
時にWW2の関東軍の蛮行のように知られている逸話のいくつかは、武田信玄戦法の影響が残る旧陸軍において「補給はいいから現地徴発で(食糧現地調達)」な戦術的ナンセンスが悪癖として残っていたからで(且つ中国南進は後に軍法会議ものとなる軍令部命令無視の暴走だから補給が十分な筈も無い)、日本の軍部に庶民を攻撃する意図は伝統的にも文化的にも存在しない(そもそも日本には文化として西洋のような奴隷制度も無いのだから合理性がどこにも無い)。

話は戻りますが、この明治にやらかした歴史的捏造『共同幻想』を、
戦後もサラリーマンによる経済戦争みたいな”お話”で引っ張ってきたのですが、元から底の割れた話でした。そんな当時の『共同幻想』の硬さの話はともかく、
『共同幻想』戦争論において同時に言えることは、
そこでサボタージュしたり、権威の正統性を毀損するような振舞があったとしたら?
速攻、非国民であり、売国奴となります。
(ちなみに「村八分=事実上の一族殺害」など、いざ村社会から敵勢判断された時の仕打ちは明治以前のが苛烈でしたが、)
所謂現代イジメ論に連なるような「『共同幻想』によるなんだか曖昧で妙な同調圧力的強迫心理」つーのは明治以来の傾向と言える話です(はなからそんな伝統日本に無かったんだが)。

「戦後が終わった」なんて言うならですね、明治以来のでっち上げ『共同幻想』やその亜流の崩壊も意味していなくちゃ〜いかんのでありまして、
江戸文化や上方文化が日本の本道とは言いませんが、明治維新のやらかしが極めてインチキ度高かったのは事実であって(列強の圧力を前に生存のためやむを得なかった「黒船反動形成」な部分もありますが)、地方のマジ同族恐怖政治的なローカル『共同幻想』とともに、都市部においてはあっけらかんとして自由気ままな市井の人々って姿こそ保守本道の日本らしさだと思う次第です。

■話は『共同幻想』における「面白さ」や甲斐ってところに戻りますが、
高校野球の事例のように、あるいはWW2総力戦のように、
『共同幻想』における社会が明解なヒエラルキー構造であり、3人集まる友人関係にも”内々に上限関係が’成立する”社会でありますが、「どんじりの末端クラスにおいても(上部構造全体との)一体感を甲斐として感じることができるのです」。「面白さ」をエキサイティングを(社会適応した構成人には”自分もその一部であると”)提供してくれるワケです。
「人間である必要は無い(『自意識』の一部は自ら抑圧しなさい)、お前は立派な兵士であれ(自分である前に立派な構成員となれ)。死に場所は(=生き甲斐)は俺が決めてやる」
 ↑
つまり内部的には『共同幻想』社会も(表面的には競争社会になっていても)真面目に適応していれば、表面的に無能で怠けものであって全然可なのです(しかも婚姻相手などまで年功序列で斡旋してくれる)。「結果論には関係が無い」という心理学的原則論はそういう形で成立している。
勿論、その大前提は所属『共同幻想』に対する疑いようの無い”愛”が条件になります。

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posted by kagewari at 20:41 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月22日

「面白さ」と”甲斐”や”鬱”

それは同時に”賭け論”なのかも知れません。
(ちなみに『共同幻想』論的な”甲斐”は次回記事化の予定)
原則論的な意味の”甲斐”ってのは、つまるところ「動機形成=行動企画の可能性」であり、
そこで”賭け論”がそこを補完するワケですが、結果の可否は”賭け論”が成立している以上「どうでもいいこと」になります(賭けは利益目的の”投資では無い”ため)。
宝くじじゃありませんが賭けは究極「夢を買う」ものであり具体的成果を希求するものじゃありませんから。

不思議なもので日常生活の食事や睡眠など身体上の本人が自然に欲求する行動はその動機形成も案外地味で(面白いことがあるとそっちのけになる)、たとえば食事に関して「面白い事ジャンル」となれば”おいしいもの”のとうな別のフラグが立ちます(同時に行為の賭け論も成立する)。

さて、ここで考えるべきは、
「面白い(外部事象がある)から動機形成されるのか」「その動機形成が(アイデアとして)面白くて行為としての賭けが自然派生するのか」みたいなところです。
内容的には前者は微妙に『被(こうむる)』っぽく、後者は自立系『抗(あらがう)』っぽい位置づけとなります。そのまんま断定するのはアレかと思いますが「前者は幼児系であり、後者は大人の自我マター系である」分類でしょう(あくまで大まかな分類ですが)。

ちょこっと補足すると、HPテキスト関連事項ですが、
「”やりたいこと”など無い」「”おいしいもの”などない」それは抽象概念だからみたいな話に被っても来るんですが、「これ面白いんじゃないか」的主体性の中でアイデアとして「これやりたいかも」だとか「おいしいものかも(おいしそう)」←こっちはあるんです。
 ↓↑
HPテキスト的に”やりたいこと”が見つからない論の話は、「それはやりたくないが権威的認知としてやるべき事項だ強迫に対する(抑圧された)自意識の薄っすら忌避感じゃないの?」的説明になっていたかなと思いますが、
本来自意識が抑圧や拘禁や拘束状態に無い場合(本来の生業として)、放っておけば充足されてしまう欲求(生存するため行動発現を促す生体的ストレスの総称”広義の性欲”)こいつをなんとかしなければ欲求不満ストレスにまで及ぶので、「なんか(面白いこと)ないの」と動機形成を探します。
飢餓状態の第三世界なら「穀類発見」だけで脳内快感物質(興奮による快感代謝)全開となりますが、飽食の先進国の場合食欲の運営的にですね、てんこ盛りの白米だけ目にしても脳はさっぱりカタルシス的振舞に至らないワケです。これを放置すると別の意味にもいかようにも変質する欲求不満ストレスなる別の意味の話にまで発展します。
意味わかりますよね?→特に専業主婦のみなさんならよーくわかる筈です。
「今日何食べたい?」←この投げかけは「今日の”これおいしいかも”は何?」つー意味なんです(はい、自意識は”思い付き業務”をしてくれと)。
そこでいろんなものがぐる〜っと逆転して更に180度ほど旋回すると→「そうだな、何かおいしいもの作ってよ」などという答えで夫婦離婚の危機なんて〜なことにもなるワケです(それを仕事してと投げかけているんだろ?そんな返され方したらこっちが反動化しちゃうだろーが!みたいに)。
 ↑
『共同幻想』末端でもある夫婦における原則的な強迫構造的に専業主婦のみなさんは『被(こうむる)』側である宿命を帯びる側面も合わせて考えるとわかりやすいかなと。

さて、そんな話を踏まえつつ戻ります。

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posted by kagewari at 03:46 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月14日

やれ”なんとか障害”などの用語が誤用・乱用される点について

2chなどではアスペルガーや統合失調や発達障害など一部が「慣用句」的に用いられるほど随分言葉として(どんだけ種類あるんだよと種類含めて)乱用されていますが、心理学的にはどうにも始末に困る場合があるのです。
何度も書いてきましたが、所謂臨床系の病名呼称ってのは対処療法時の”症例分類”のことで、”糖尿病”だとか”インフルエンザ”などのような症例の原因となる外的乃至身体的要因が名前になっているものではありません。
類似する呼称としては「なになにアレルギー(免疫系起因の炎症が見られるという所見)」だとか「なんとか鼻炎(言わんとしていることは鼻に炎症が見られるという所見)」のような分類のことで、
昨今もまた妙な記事が出ていましたが、
脳科学系だとか脳外科だとか或は臨床系や神経科などから様々な研究があるのも事実。

事実ですが、アルコール中毒や薬物中毒でも脳に障害が見られるように「過度の日常生活の偏向」があれば、人間生き物ですから「必ず外形的変化として観察可能な状態」は派生するワケで、
これって極論すれば「床屋にいかなかったら髪が伸びてえらいことになる」のと大きな違いはありません(或はメタボなどの生活習慣なんとかとも類似してます←この場合も肥満に関わる遺伝子がどうこうの論議も研究結果で出ますけれど、メタボを遺伝子要因の不治の病と分類する人はいない)。

人体科学的な研究そのもには個別に大きな意義がありますから、
研究そのものは否定どころか大きな期待を寄せますが、
あたかも「病名呼称が付くとそれを免罪符とばかりに(或はそれを差別的言動の根拠とするなど)」言葉だけがひとり歩きする状況は、心理学的にははなはだ困ってしまうワケです。
特にカウンセリング主体で投薬を行わない現代の人文系心理学の場合(厚生省との関係で投薬処方上の根となる分類は必要ないため)、ざっくり言えば「総じて神経症」なのであり、
やれナントカ病などの分類上の呼称には全く意味がありません。

※リハビリの観点から言えば、それが後発的なのか先天性なのか「関係無い」のですから。

●障害認定的に福祉関係も厚生省のなんとやら同様に分類や病気認定が重要ですから
そこは別の意味で重要なのです(精神科の診断などなど)。
しかし、差別的表現の件もそうですが、
なんとか病なるくくりで、「こうと決まっているのだから」のような見立てが横行するのは認識の誤りであり、当事者が問題意識を持つ場合の指標にはなりますが、そこ(病名呼称)に特別殊更の意味はありません。

やれアスペルガーだとかなんとか病だとかサイコパスであるとか、
このような分類の自我タイプで、社会でバリバリ活躍している事例(専門性のある上級職や会社創業者などに多いとかの論議もありつつなので)含めて、固有に「だからどうした」って話では無いのです。
●特に『共同幻想』社会においては、所謂個人の協調性としての”性能”が重要なファクターとなるので、相対これらの問題が「あたかもトンでもだ」などのような反応に繋がるだけで、
自我論的には「どこにでもある個体差幅の論議」であり、
心理学の原則である「それを問題とするか否かは当人の判断」なのであり、当該人物がとりたてて問題意識が無くいけている場合「(個性の幅に過ぎず)何ら問題は無い」のです。

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posted by kagewari at 13:14 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月08日

『シン・ゴジラ』のネットレビューから見えてくる”別のもの”があるのです

それって一部「海外の翻訳サイト」にも通じる部分あるのですが、
市井の人の知識や評論水準の”想定外の高さ”、そこに本当の意味の(リテラシーがどうこうでは無く)『単独者』の台頭って姿を現実のものとして見ることができます。
動画レビューで一番驚いたのが、某アマチュアボディービルダーさんの「試合に負けた脱力で特別企画でゴジラの解説を」みたいな評論で、それがすこぶる内容がいい。
昨今の私は映画館で映画を観ようって体力がもう完全に枯渇しておりまして(思春期の頃嫌ってほど観ましたから十分です)、実際ゴジラ観るのははDVDになってからかと思いますが、数々のレビューを見て読んで、おおよそ脳内では一回ゴジラ観た状態になっております(伊達に心理学やっていないので脳内シミュは大得意ですから)。

今回のゴジラは「右派には右派の、左派には左派の見方で楽しめる」という卓越したシナリオを特徴としており、『共同幻想』崩壊以降大ヒットコンテンツという概念が構造的に不可能となった現代において3.11災害モチーフによる半ば強制的に不特定多数の人が共通体験する事案を使うことで(だから見た人の感想が無数に分岐している)エンタメ性と高収益を両立させた稀有な作品です。
10年いや20年に一度の金字塔的評価も目立ちますが、その理由は「そんな頻繁に大災害も無いから」という連想もあるのだろうと(そこまでリアルな災害体験として映画化に成功した)、そんな風に思います。

その結果、いかにも左翼で無職っぽいおっさんがチェーンスモークしながら1時間以上熱く語るみたいなレビュー動画があったり、報道番組司会者の方が「興奮で昨日眠れませんでした語りたくてしょうがない映画」と絶賛するなど、
『媒体としての映画』のような構造が『シン・ゴジラ』に成立していた。
 ↑
■ここが何を表しているのか。
『共同幻想』リミッター無く「俺はこう思うんだ」的な欲求が(シン・ゴジラをリトマス試験紙として)「もう我慢できない私もカミングアウトだ」のように噴出している。
この様子こそ『単独者』時代の到来を告げるものであり(評論としてしっかり内容のあるものが次から次無数に湧いて出てくる)、
古くから「ひとりで読むスタイルが一般的な書籍や音楽、意図的に上映時暗くなる映画は『単独者』的仮想空間を醸成するというか刺激する媒体」でした。
昭和の思春期『反抗期』などでは文系学生はそりゃ読むわ読むわ、あるいはそこからやれ演劇などへ派生してな〜んて格好で自我の底を開拓するかのように仮想反抗期を過ごしたもので、
 ↓
履歴書趣味欄のトップスリー「読書、音楽鑑賞、映画鑑賞」ってのは、仮想単独者状態(プライバシー全開時)空間を持ってくる媒体の定番だったのであり、

■”マニアの論議”に見受けられるように、同じコンテンツで語れるのは小社会に限定されました。ところが『シン・ゴジラ』は大ヒットしており、エンタメとして誰に対しても勧めやすい。半ば自動的に「マニア論議を広範に語れる」という構図が成立するため、
「にわか『単独者』が強烈な風速で増加した」と考えられます。
勿論、その体験は『単独者』心を刺激したでしょうから、『シン・ゴジラ』を契機として日本の言論空間そのものが構造的にアレする可能性すらあるのではないかと思います。
(それが経験したことのない面白さとして認識されているのではないか。)

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タグ:『単独者』
posted by kagewari at 00:40 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月04日

小さな集団心理と家族社会の落とし穴

それは高度経済成長期以降の核家族問題なのかもしれないし、
現代社会でも(所謂総じて若年層の非行総数が低下しているのに)問題として残り続けるいじめに関わる事なのかも知れない。

『共同幻想』は最小単位二名でも構成可能です。
コンビや夫婦や共同経営やカップルなど様々なパターンがあります。
二名であれば、実態として”組織運営”にはならないので(表面的には個人的関係で行ける)、目立った問題は起き難く、てか問題発生=コンビ解消ですから問題性の代表は「壊れやすさ」って事になるかも知れません。

さて、やっかいなのは「微妙な複数による(三名以上の)”独立する小集団だけ”によって構成される『共同幻想』」です。
■話を『共同幻想』権威性と正統性原則論から考えるとおのずと上記の問題性が浮き彫りになります。根本を伝統保守とする『共同幻想』の場合、何らかの形で”更にその上位集団への帰属”という流れで全体として公儀認定的な権威に接続することでその内容を担保します。
近代西洋の家族社会の運営がわかりやすいモデルとなっており、家族社会は教会権力の下部組織であり、日曜には全員呼び出しで「内容チェックかけるから」みたいな形式となっている。
日本の場合は農村中心とした村社会の延長における「世間様」との連続性から(接続とは言えませんわね)その権威性と内容が担保されてきました。

(※江戸文化などが独特なのは人口構成的に家族社会が必ずしも”ベースにならず”、当時からしてシングルライフが文化の底流にあったためサブカル的方向も栄えたって一面があるかと、)

『共同幻想』の社会力学的動作はむしろ別の意味で強固であったとしても「暴力団や暴走族」は上位権威との関係性が担保されていないため傍流・亜流扱いされ社会的評価が「裏街道・外道」となるのでありますが、
後期先進国社会の場合、ご存じのとおり核家族に始まる「社会の大ヒエラルキーとの連続性」みたいな話がせいぜい高学歴志向みたいなどちらか言えばインセンティブによるアレ水準であり、保守本道という意味における正統性などを担保する要素はぶっちゃけ断絶したのであります。

勿論、学校クラス(階級)社会制度における友人関係などの小集団も(一部体育会系部活組織を例外として)「どこの上部階層と接続もしていない」状況がむしろ一般的となり、
前述家族社会同様に「正統性や権威性が何ら担保されていない”仲間組織”水準の『共同幻想』社会」として半ば放置される格好になりました。
※勿論それが「社会学的『共同幻想』崩壊過程」ってことなんですが。

■さて、この時心理学的意味で「その小集団の心理」ってものをどうとらえるか。
肝心要の正統性が何ら担保されていない。
本来の『共同幻想』ってのは、保守性の原点として(封建社会以前や近代などではそもそも過半の民衆が文盲であるなど)所属メンバー誰もが知識階級とかあり得ないため(特権階級貴族階級がローマの浴場でみたいな話にはならない)、伝統文化として”こうだから”と定まった常識を有無を言わせず共有化し「実に合理的に知的なんやらを”上から下へ伝達”共有する」つーところがレーゾンテートルなのであります。
そこが切れちゃうと、一体何の権威で果たしてどういう知的判断でそれが是とされ集団に”上から下伝達”により共有されているのかって部分がガタガタになります。

それだけでなく、「誰が上位者で誰が下位メンバーとなるのか」という順列も所属メンバーの社会的力関係で適当に決まってしまいますから(所属上位組織から指名されるとか無いから)、実態としては「暴力団や暴走族のそれ」と大きな違いが無いワケですよ。
●「集団心理の強迫性」だけが威勢を放つみたいな。

ぶっちゃけ「強迫心理的問題」を各個人が抱えやすくなってしまうとも考えられる。
「正統性謎の権威性により意味のわからない従属を強要される感」が発生する確率が上昇しますからね。意味が分からない事が更に→強迫性や従属圧力だけが目立つ形となり「漠然とその権威性がデフォルメされる」可能性を拡大させ、”プチブル階級”じゃありませんが「そこに放り込まれた子供の自我的には反抗期の対処にも困る」ケースが自ずと増えてしまいます。
(先進国における『共同幻想』崩壊過程においてメンタル問題が発現しやすい背景の一部でもあるでしょう。)

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posted by kagewari at 04:50 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月01日

「顔に出る」

■表情って何でしょう。
現在の研究がどんな見解なのか知りませんが、動物行動学者ローレンツの時代だと「笑顔の原型は近所の別サル集落襲撃前のチンパンジーの興奮状態かもしれない」な〜んで話もありました(チンパンジーは”サル食い”で有名)。
その真偽はともかく、表情筋の振る舞いは神経的にも『自意識』専属ってよりかは、神経系所属と理解する事に異論のある研究は無いでしょう。
心理学的に言うなら深層心理や無意識も顔に出ると推定されます(生命としての”本人”マターなので)。
ある意味”演劇論”の逆さまって部分かもですね。
(演技論で言えばリアリズムを追及した演技は深層心理まで表現できてなんとやらとか→迫真の演技中はマジもので演じている人物の心理状態が再現されると考えるのが自然みたいな。)

映画の台詞によくあるじゃないですか。
「お前が嘘をついていると顔に出るからすぐわかる」
なんてね。
逆に言えば「表情は無意識マターであり、『自意識』にはその自覚無くても強迫心理は顔に出ている」という仮説もあながち否定できないでしょう。
(臨床系にそんな実験したところあるのかないのか知りませんが「そのまんま鏡像論」みたいに、鏡の自分に話しかけると人の心理にどのような影響が出るのかみたいな試みとかちょっと興味ありますね。演技者として自分を見て台詞と表情一致しているか?みたいな命題で。)

その話の延長に「やたらと他人を凝視している自分に全く自覚がない」なんて現象も含まれてくるワケです(表情やふとした仕草は無意識マターであり『自意識』マターでは無いって部分でね)。

無意識マターの根拠としては、前述の神経系所属云々の他にも「自分の声を録音したものを聞いたとき誰もが違和感を感じる」ってアレがあります。
自分の声は発生後の音だけが聞こえるワケでは無いので(体内にも反響しているのですから)他人が聞いている自分の声と自分で自覚している自分の声は違うのでありまして、表情についても「常に自分の顔を見ながら生活している人はいない」のですからこんな発言しているときにどんな表情になっているのかなど自分ではほとんど知らないものです。
(前述括弧じゃないですが、鏡を前に練習する舞台芸術や俳優や形態模写の芸人さんや、自分のフォームをチェックするスポーツ関係者など「自分の振る舞いを映像的に確認するのはごく限られた業種」でありまして、一般人は自分の歩いている姿がどう見えるのかすら偶然ガラスなどに写る一瞬でしか知りません。→代表例が「自分の姿勢の悪さに自覚が無い」とか、)

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posted by kagewari at 21:24 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


『住まいの心理学』
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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照

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