2015年10月31日

人間にとっての現実(2)

前回の論議
>だとすると、当初の疑問に戻りますが、
>●何故に「リアル現実を時に超える人類特有の解釈の幅」なんてものは無自覚なケースが多く、むしろ「狭隘な現実に苦闘する自分」等の方が強く意識されるのか?
>なーんて時に、外部的現実との接点を繋ぎとめている者この自我であることがわかります。
>(ひょっとするとそれが自我機能のレーゾンテートルなのかもしれない。)
>「自我は現実の観察・観測者であって、ジェットコースターの乗客では無い」
>「これはこういうことにしようか」と決めている主体こそが自我である。


これはどういう意味なのか?

いやいやいや、人類は神にも似た「現実の設定を操作する主体だ」みたいな話をしようってんじゃありません。
ゲームの設計じゃないですけれど、「こうなってこうしてこうなればクリアとかにして」のようにですね、「どういうことになったらこうだ」を予め認知(仮にそれを自分で無意識に解釈していても)する流れが無いと、「何でもアリになり過ぎて、何もしていないのと同じになる」という根本的な矛盾の論議にぶち当たります(「フリーJAZZ崩壊の法則」って奴です)。
 ↓
そこが実存主義でいうところの「不条理こそがなんとやら」って論議の元ネタになるんです。
「全く意味が無い行為でもシューシュポスが岩を押し続けるから実存があるのであって、その意味は重要では無い。」
人間ってものは「好き好んで自分の手足を縛り、そこから抜け出す悪戦苦闘の中に喜怒哀楽を感じるド・Mなのじゃないか?」←案外それに近い話なんですね(笑

そもそも論に戻れば答えはそこにあるんです。
「人類ヒト科特有の現実解釈の自由度」←これこそが(BGMやファッションやメイクや想像や詩的解釈や様々のナントカ)→「ド・ナンセンス」だからです。
かといって?「自然に帰るんだ。明日から僕は孤島のヌーディスト村で暮らします。」なんて話をしようってんじゃありません。
『外的現実と観察される現実との相克』→わかりやすく言えば”ギャップ”ですか、
これをあたかも”お題”であるかのように、自ら格闘していく様がシューシュポスなんですよ。
その格闘はとても似非っぽくて偽者っぽくて意味が無いように思えますが(現実のが先にあるんだから)、それでも行くんです。
「どういうことだこれは!」って。
この時、自我は自分の存在を知る。
(「今、怒っているのは誰だ」みたいに。)
馬鹿馬鹿しいことですよね(笑
少なくともそんな馬鹿騒ぎは生存に関わる部分だけにしておこうって判断もアリでしょう(そんな宗教一派もあったかと思います)。

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posted by kagewari at 18:06 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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