2015年08月29日

犯罪心理のボーダーライン(2)

過去エントリーはこちら
http://kagewari.seesaa.net/article/420975511.html

今回は『犯罪心理の経済学』って感じで進めてみましょうか。
時折報道などを目にして「何故こんな酷い事を」的意見を耳にしたり、私自身も思う事ありますが、いえいえ心理学的には非常に合理的側面ってものがあるのです。
それは=「日常性の危うさ」そのものであり、人間の自我ってものの怖さそのものでもある。

犯罪的行為選択の反対は「法治国家」だったり「法令遵守」の姿勢になりますね。
この合法的選択から考えてみましょうか。
合法的選択の合理性ってのは、ゲームや生存競争などの正統性基準みたいなものです(公正さ・中立性の担保と言い換える事ができます)。
「100mを走った時に誰が一番早いのか」←この競技を争う場合、ズルして勝っても意味が無いですから(100m競争の公正な勝者であると自認できない)、積極的にルールを破る理由も根拠も動機形成に発生しません。
「将棋の勝負でどっちが強いのか」この時に、双方自前で関係無い駒を持ち込んでいいのであれば、もうどちらが勝ったにしろそれは競技として将棋でもなんでもないのですから意味が無いのです。

一般社会において最も違反事例が多いのが道路交通法でしょう。
仮にこれが「レースのレギュレーション」であれば、確信犯的にそれを破るものはいないでしょう(勝つために隠れて破る事はあり得ますが、この場合もスポンサー獲得など別の目的がある場合で仮にそれで勝っても本当の勝者である体感を獲得する事はできない)。
一般社会で道交法が破られがちなのは簡単な理由です。
車の競技をやっているのでは無く、移動手段として車を使用しているのだから専らその利便性利益の方が高いからです(公正な争いや勝者のタイトルも関係が無い)。幅広い安全基準が道交法なのでゲームや競技のルール的な法律の本質からやや離れたとこにありますからね(便宜法とでも呼びますか)。
しかし「暴走族の論理」はどうなるでしょうか?

暴走族の論理は「専ら道交法に違反して”いなければならない”」のであり、「合法的に走行していたら暴走族では無い」のです。
つまり「暴走族足るもの維持でも全ての道交法に違反しながら走行しなければならない」(便宜的に自己都合で違反したりしなかったりしているのでは無い)。

この心理は何かって、
『暴走族』という犯罪選心理のボーダーラインを超えているので(超える時に合法性の世界を何らかの事情で捨てているのですから=合法的に開催されるレースなどに勝ちたいワケでは無い)、「犯罪者人生を生きるとなれば、デカイ事をやらない事にはやり甲斐が無い」のです。
ここは努力の法則と同じ、
犯罪者にとって、レベルの高い犯罪は仮に捕まれば刑期も重く高いリスクになります。
合理的に考えれば「工夫して軽犯罪に留めておくのが賢い選択」と思えます。
ところが(自立的・主体的選択と同様に)生物の幸福とは「不快選択」により実現します。
何々を獲得しようと何々の自己責任を”賭けた”←わかりやすく言えば掛け率の法則です。
自立的・主体選択の場合は、それは=自分のやりたい事なのだから(どれだけ辛い不快を伴っても)努力すればするほどやり甲斐を体感できる(結果と関係無く)。
つまり、動機形成・意欲として『暴走族』を選択した場合、高いリスク(重犯罪)を取る行為こそがやり甲斐になります。←「工夫して軽犯罪に留めておくのが賢い選択」なんて合理的思考であるなら、そもそも犯罪心理のボーダーラインを超えず、合法的世界で生きていればいんですから。

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posted by kagewari at 05:34 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月26日

何かをしたから何かがあるのでは無い

実績なんてものは、本質的に事象全体にとってたいした意味も価値もありません。
せいぜいが、『共同幻想』内部の権力闘争や地位や名誉のポケットの中の争い事に過ぎず「家に帰って裸で風呂入っている時まで地位や名誉が刺青で入っているワケも無い」のです。
(実際『共同幻想』に保障される身分なども退職すれば空手形にすらならないのですから。)
この世には拝金主義なんてのも存在しますが、
拝金主義が生まれる原因は、前述の実績や社会的地位などが保存されないから(常に過去に消えゆく)、その証拠を集めようとして発生するのであってですね、その所得をもって何をしようだとか主体的な発想を伴わないとこに特徴があります(偏差値的な価値基準の上でしかその概念も成立しない)。

結果(根拠は権威性偏差値認知なので)、その拝金主義なるスケールも偏差値母数に自動的に連動するため「国の経済規模に応じて比例変化」しますから実態は常に相対的なもので(先進国通過で小額でも第三世界に言えばお大臣)、概念として普遍性を担保する事が構造的に不可能になります(他者との比較の上でしか成果を認知できない)。
ですから、実績や社会的地位とは「いい思い出」程度の範囲を決して超えることはできない(そこで満足しないと構造的に”永久に不平不満の温床となるだけ”)。

なんて話をすると、
「いやいや具体的に老後の資金がかくかくしかじか」なんて話に及ぶ人もあろうかと思いますが、
心理的錯覚に過ぎません。
だってそのスケールの金額を江戸時代の生活でも想像するだろうかって、、あり得ませんからね。
(比較対象・偏差値認知抜きに体感できんのですから。)
あくまでもその時信じる「偏差値的標準」なる『共同幻想』の概念を共有するからあり得る金銭感覚になります。心理学的に言えば勿論『幻想』。
(ザックリ言えば、現代社会に比べて江戸時代の生活は絶望的で、社会全体が悲観に暮れたなーんて事にはならんのです。極論現代社会でも江戸時代基準で生きる人がいた場合「預貯金ゼロ」をなんとも思わない。←そもそもこの時代には現代医療的水準の医師からして存在しないのだし。)
預貯金や資産による証拠集めも参考程度の相対評価でしかないという事です。

『共同幻想』の鉄板、偏差値的標準認知に依存していなければ、現状をいかようにも”選択”的に理解する事が可能になります(極論自己都合でいかようにも気ままな方向に考えることができる)。
=構造的”永久不平不満の温床”発生可能性とも縁が切れる。
何倍も大事な条件は「平和で自由な生命活動(自発性・主体性発現の担保)が保障されていること」です。
(ここも誤解されるかもしれないので注記しておきますが、自由ってのはあらゆる可能性を実現可能な保障という意味では”ありません”。自由意志を結果と関係無く発現可能かの意味です。←選択された事の成否は事由に関係が無い。)

■何かをしたから何かがあるのではありません。
その時、どうしようと思った、
その時、俺はこう思った、
あの時、こんな手を考えた、
こんな風に考える事にした、
「どう(他者比較と関係無く主体的に)思い、何を(自立的に)考えたのか」←こちらが普遍的実存となります。
何故って、その当事者が現在進行形で今ここにいるからです。
そして今ここにいる当事者人物象の証明でもある(限りなくレーゾンテートルですよ)。

意思決定や、現実認知の前提を何が外部に依存するなんてのは(前回エントリーで書いたように)ド・ナンセンスですが、過去の実績云々にどうこうするってのも(そもそもその状態そのものが強迫性のあるものですが)それが成功例の自慢話であってもさして意味の無いものだし、そんな話を喧伝されても周囲は白けるだけです(現在から見れば全ては幻想なのだから)。

生存証明なんてものは心理学的結論じゃないけれど、
「さて、どうすっか」←この場面にこそあるんです。


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posted by kagewari at 18:09 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月22日

自立性の意味

「自立」の反対が『依存』です。
少なからず『共同幻想』適応選択は一種の依存(や丸投げ)になりますが、それが無自覚では無く確信犯的選択であれば「自立的選択」となります。
のようにですね、
鬱ケースもそうですが、メンタル問題において問題視される事の多いテーマのひとつが『依存性』になります。『依存性』の説明は随分やってきたので、今回は逆方向から「自立性」について考えてみます。

関連キーワードを出していくならば、
「自立性」と「自己責任担保」は関連項目です。
自主的な賭けであれば、その勝敗の責任は全て自分にあり、結果に対してやれなにがどうこう誰がどうしただのって話は一切出てきません。そして、その結果責任は=(買っても負けても)全て自分の成果なのであり(買っても負けても)ある意味経験・スキルの獲得を意味します。
所謂”なんとか甲斐”って奴です。
時に「責任を求められる」と受身表現(『被(こうむる)』)となった瞬間に戦犯ってかな、あたかも犯人扱いされる認知になりますが、
「ここの責任者は私です、全権は私にあり口出ししないでください」と主体的表現(『抗(あらがう)』)となった瞬間、最大の私利私欲と申しましょうか「自己の存在に関わる重大事項(資産に対する所有権の意)」と話は180度逆転します。

これは関係論というか社会学的見方として、
関係が『依存的』だったり『従属的』だったりする場合、勿論の事(受身になる理由でもありますが)そこには権威性認知が関与し、同時に階級における上限関係を示唆するような話になります。
つまりそこで語られる責任とは”中間管理職的な業務や労役”の事になり、「上から追っ被された仕事や命令」みたいな事になってしまうからです。
しかし関係が自立的なものである場合、そこに上下も階級もありませんので(自分で選択した自己責任の担保と選択と結果に対する所有権の保証があるだけなので)、極論するとそれは(自主的選択で誰の命令でも無いので)「自分のやりたい事」になるんですよ。
(興味ある方はHPコンテンツの心理学テキストX参照)
http://kagewari.cside.com/kage_tex51.htm

なかなかこの辺のニュアンスが理解され難い事あるんですよね。
それがやりたかったからやりたい事って抽象概念が出てくるのでは”無い”んです。
実のところ、言語として正しいのか怪しい「やりたい事」なる抽象概念はですな、「それは自分が主体的に自己責任を担保したことなのだから」を背景にするから(結果として具体的に何をするなどの定義無いままに)抽象概念として「それは自分がやりたい事だ」と認知されて論旨矛盾しないのです。
(HPコンテンツにあるように「やりたい事がみつからない」という言語表現は完全に使用法的に、国語的に文法的にNGであって、日本語が破綻するぐらい論理矛盾になるワケ。)
全文を書くと、
たとえば、
「何故そんな事をとか言うのかもしれないが、これは俺が自分の意思で選んだ事であり、そうしたかったんだ(これは俺のやりたい事だった)。」
●何を選ぶとかの意味では無く
「主体的に選択したのである」を条件に「やりたい事」の概念が脳内で”認定される”んです。
ですから、
選択が依存的だったり従属的な場合(『被(こうむる)』)、考えるまでも無く「主体的選択」という認定条件が崩れる事により→「やりたい事を喪失」します。
後から探して見つかるようなものじゃ無く、認定要件の話なワケ、
 ↓
そこに「自己責任の担保が無いから、選択や行為や結果に対する所有権が無い」のですから。
「(やり甲斐を含む)やりたい事」認知の成立条件が「主体的・自立的選択」であり=その意図は「自己責任の担保」であり=「全ての責任は俺にあります」という台詞によって「関連事象の所有権」を成立させる。
その反対は、
「私には責任がありません」=当事者条件を満たしておらず、そこで起きた事やましてや結果に対する所有権もありませんから、そこになにがあろうが(それを選んだ当事者が自分だろうが)「私には関係がありません」→関連する事象に対して「私は関係が無い」になります。
こうなると「自分が存在していない」と言っているのと同義ですから、自我内に「(やり甲斐を含む)やりたい事」認知の成立条件を根本的に失っており、生存意義すら怪しくなります(その生存の証明すら他者に依存するようになる)。←ここが鬱症状などのバックグラウンドにもなる。

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posted by kagewari at 00:20 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月19日

戦争と平和

前提として以下過去記事も関連事項参照
戦争における発砲率とかいう話
http://kagewari.seesaa.net/article/421123514.html



■「平和的共存」←これが成功するためには経済学的成長などの根拠が不可欠です。
何故なら基本的に紛争の始まりは「食えないから」に尽きるからです。
権力の側から言えば「食わせられない(=反乱により権力を保持できなくなる)」、
先進国が所謂総力戦の全面戦争など以降あり得なくなった原因は「先進国において食えないなんて事が(経済政策的に)あり得ないから」です。
諸外国、とりわけ中東などに見られる紛争は違っているのでは?というご意見の方もいらっしゃるかと思いますが、所謂「モスリムにおける世俗主義」というのも、キリスト教における(特に米国)「カルヴァン主義」についても、文明化・先進国化に至る経済政策と宗教的戒律との間にどうやって整合性を持たせるかって話なのであり(ご存知のように文明化は=確実に将来『共同幻想』を崩壊させるため)『共同幻想』保守派にとっては苦い薬に違いありません。
(考えるまでも無く文明化を否定すれば生産性が向上する可能性は皆無ですから、「食えない事を受容するか、戦端を開くか」しか積極的な拡張政策は無く、そのいずれも「平和的共存」とは言えない。)

しかし、なんだかんだと「平和的共存」の可能性は「自国生産や交易で平和的に食えるのか」に尽きるのですから大きな方向性は「いかに文明化と実効性のある経済政策を導入できるか」、宗教的伝統のある国家においても激しい格闘や論争が繰り広げられてきた訳です。
その反対に「戦争の可能性」はどっかの国が食えなくなる可能性となります(=伝統保守系『共同幻想』を原理主義的なまま温存可能)。
東アジアにおいて明らかに問題になりそうなのはロシア・中国・朝鮮半島です。
■東西冷戦時代になんだかんだ結果論としての平和的な共存が時折見えたのは、ひとえに東側陣営が秘密警察などで反論を押さえ込んでいたことと(国内で平和的共存とは言えない状態をやらかしてくれた)、西側陣営にはケインズ主義という経済政策が有効だったからです。

所謂パワーポリティクス的に覇権を握る国家の経済状況がトンデモな余裕を持てば、周辺諸国や属国に対して大盤振る舞いで「食える保障」を連発ですますから(戦後のアメリカです)、それは「平和的共存」となります。
言い方変えればダントツで経済的成長を(他国と貿易戦争など発生させず成功)維持可能であれば、周辺諸国に対しても平和の分配が可能になります。

マクロとミクロの中間的分析として、
■「業界内での平和的共存」を考えると、そのまんま国家間紛争のシミュレーションになります。
たとえば、高度経済成長時代で車のメーカーが複数共存可能な時代には、たとえメーカー間の競争が激しくても「負けた側が食えなくなることは無い」ため、せいぜいが「社の名誉をかけた戦い」となるだけで、過当競争になったり(EUみたいに)業界大再編成なんて必要もありません(その代わりこの時代の日本はその後日米貿易摩擦になったけれど)。
上記の場合は、個性的な会社が競争に少々負けたとしても大きな傷を負わない「名誉をかけた戦い」にいそしむだけです。
しかし、低成長時代となりグローバリズムの中で「生きるか死ぬかの激烈な競争」となれば、食えなくなるかもしれない圧力かかりますから、その競争も洒落にならないものとなり「負ければ倒産」も覚悟する事になります。←さならが戦争です。
(日米貿易摩擦の時に、米国が日本に内需拡大を求めたのはとても合理的な話だった。)

中東を巡るここ100年近い争いも、世界経済の命脈でもあるエネルギーが関係しているからで、俯瞰で見れば「世界的スケールの中で食えるのか食えなくなるのか」的な視点の中、あーでもないこーでもないとなってきたんです。
(ヘゲモニーという点で支配者となるための富の独占競争も事の発端は「生命線となる何かがあっての話」ですからね。)
実に単純な話で、
世界的に好景気の間は地域紛争も起き難く、戦争や紛争の可能性が高まるのは「不況」を発端とします(WW2だって発端は世界恐慌です)。

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posted by kagewari at 14:50 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月17日

映画はオワコンになるのだろうか

某映画でトムクルーズ氏が「登場する戦闘機がもしCGなら俺はやらない」と言ったとか言わないとか。
そのお気持ちよくわかります。
名優の方々、セットも無いCG用の無味乾燥なスタジオで大変無理の多い演技されていると思う昨今、こりゃ実写なんだろうかと思いますわね。
アニメにおいてもCG出てくると「手書きでやれよ」みたいな苦情出てくる始末で(CG使いの表現って世界もあるそうで今後変化するかもですが)、そりゃCG屋さんから言えば「元からフィクションでしょ」と言われそうですけれど、映画の価値ってドキュメンタリー以外オワコン化するかもです。
一番意味不明なのが、アニメの実写化を「セットはほとんどCGです」ってのですね。こうなっちゃうとアニメの方が実写で、CG使いまくりの実写映画の方が「アニメを地でいってみた」色物(或いはパロディ)みたいな事になります。
所謂TV業界が延びた結果(まだまだ太陽にほえろなんかはフィルムで撮影していた)、フィルム撮影する映像人が激減し、照明の当て方などの技術が喪失したなんて話を聞いた事もあります。
(その結果昨今の映画は陰影が無く何から何まで明るいTVみたいな表現なんでしょう。映画館暗くしている意味ないだろうってねww)

ほどなく音楽業界に起きたように、安価なCG製作ソフトが流通し「個人でも1時間ぐらいの映像作品をフルCGで撮れちゃう」なんて時代がくるのでしょう。
そうなっちゃうと、どうなんでしょう(笑
巨匠という存在も(昭和の大歌手が消えるように)消えるのでは無いかと思います。
私も若い頃は「やれキューブリックだ、スコセッシだ、リドリースコットだとか」中身知らなくても監督買いで観るってな事もありましたが遠い昔話となりました。
(古い人間なんで、今でも生涯一番カッコいい映画はマックイーンの『ブリット』だと思っております。)
実際ニコ動やユーチューバーとも呼ばれる謎の方々など、なんだかんだ個人で映像作家として食っている方も多数派生しており、その萌芽は始まってます(確かにこっち方面の表現は”実写ならでは”といえるのかも)。

思うんですよ「そもそもフィクションってなんだろうか」と。
映画って言えば随分高尚な芸術でしたけど、始まりはオペラや歌舞伎などのスケール大きな舞台芸能でしょう(更にその前は神殿の前のプロパガンダ的な儀式など)。
そこには認知の自主選択を刺激する側面や効果はあったんですよね(権威性の選択肢を示すみたいな)。名作のジーンハックマン主演『ポセイドンアドベンチャー』も明快な米国式キリスト教主義みたいなものを提示していたし、黒澤の七人の侍も目的はエンタメですが、その効果的背景として「民衆蜂起」みたいなリバータリアニズムみたいなものを示唆してました。
60年代以降のフィルムノワールなんちゃらやベトナム反戦の影響受けてからは『単独者』系の話が全盛となり、右派脚本のランボーでさえ結果論だと思いますが『単独者』的な表現を模索する作品となってしまいました(多分ベトナム戦争モチーフだと右派でも左派でも構造論的にそういう話になりやすいのでしょう)。
高倉健もヤクザの仁義の世界から→『野生の証明』における『単独者』ですから。
対比として、大げさなBGM付きの大スケール神話(『共同幻想』)が崩壊してくると、エンタメの方向性も小スケール化によるリアリズム頼みとなっていくのじゃないかしらと。
ななだかんだ「大作映画は時代劇かSFなどしかマッチしなくなってきた」といえますし、
シナリオのネタ切れこじらせると「CGを見せるためだけの演目」に落ちてしまった感もあります。

私は文壇系の動きにはさっぱりですが、
似たような側面あるんじゃないですか?
(事実ラノベであったり自主制作web小説発のヒットなんて珍しくない話です。)

小スケールな芸術表現って言えば「詩歌」のようなものかもですが、
戦後の大スケールなエンタメに押され消えつつあった「全く予算の必要無い市井な芸術表現」みたいなものが、現代におけるリアリズムのとっかかりになっているのかも知れません。
時に音楽の世界で、素人ばかりが作曲するようになれば「いかんせん技術的限界があります」。
しかし、コード進行や譜面上の取り決めなど、57577みたいな定型化ジャンルとすれば誰でもできる(ミニマル化って言えばいいのかな)、ポップアートのその先にと申しましょうか、どこかしこに「意図的な小スケール化」の方向性出てくるのじゃなかろうかと思います。
(映画における時代劇じゃないけれど、大スケールのオーケストラはクラシックという収まり方してますし。)

神話的『共同幻想』権威性認知は崩壊していきますが、ミニマル化やシンプル化って(概念としてはルールに近いものなので”誇大化を否定する最小単位の共同幻想”のようなモデルでしょうか)”言語における文法のようなもの”なので、これが多様化するなら相互理解失うほどの分散化ってプロセスに至る可能性もあるでしょう(”多コンテンツ過ぎ”だとか”棲み分け過ぎ”みたいな)。
無数に小規模スポーツジャンルができてどれだけの種が存在するのやらわからなくなるだとか、
バベルの塔の何とやらじゃないですが、

この分散を補完するとなれば、
やぱ「(多様化を超える)分散化とネットワーク」みたいなところが鍵になるんでしょうか。
文明化と現代社会を表すなんとかに「近くて遠い」なんてのありましたが、
現代社会ってものは「遠いがなんか近い(近いから遠くてよい)」を模索していくのかもです。
(私はそれをカオス化だとは思っていないのです。)
(なんだかんだ「文明化という強い共通項」がありますからね。)
かといって、分散化されたセクターが妙に濃密になって秘密結社みたいなになれば”違う”だろうし(笑
「わびさび」じゃないですけれど、「遠いがなんか近いなんとやら」と言いますか、
神話性や権威性や誇大性を捨てて行くのですから、芸術含めた表現って世界も「微妙な?」「何というのではなしの?」自意識の観測性能の高さに期待する表現が重視され(無理に訴えかけることも無く)、あんまり予算もいらないよって事になるのかもです。
(そこに至ってフリーエコノミーにも繋がるのかも、)


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2015年08月12日

宗教と心理学

あえてタブーに切り込みますか、
(勿論私は無神論者ですが、文化として伝統宗教などの存在は認めるところです。更に言えばオカルト的なものについても、史的唯物論で説明できないものはこの世に実存すらしていないみたいな発想もありませんので、わからないものが様々あるという点において否定するものではありません。)
神の概念云々の論議は「パスカルの賭け」に書いたとおりですが、
『賭けと夢』
http://kagewari.seesaa.net/article/45624219.html

神性や神の概念と所謂宗教というものは別物だと考えています。
この辺は伝統宗教の中でもかなり強力な存在であるキリスト教でお馴染みですが、新約聖書出版社というか音頭とって世界的普及のキッカケを作ったのはお馴染み「ローマ皇帝コンスタンティヌス」です。所謂その辺から王権神授説に至る政治的『共同幻想』と宗教みたいな図式が生まれるワケでありますが、

何はともあれ、フロイド心理学は特に欧州におきまして「禁忌」と申しましょうか(フロイド先生がユダヤ人という部分もあるのでしょうが)、「出来の悪い弟子のユングがナチスに協力しましたね」なところの方が有名だったり、ぶっちゃけ目の敵にされている側面もあります。
(お国のオーストリアでは「フロイド誰ですかそれ状態だ」なんて話を耳にすることもあります。)
歴史的経緯からしてもフロイド先生時代の相談事例におけるコンプレックスには欧州特有の宗教的権威性と超自我(自我内で自意識の上位に存在する憲法的な倫理道徳などの重要事項的ロジック)みたいな関連性抜きに語れないところもあったので、「宗教悪玉論を展開しとんのかい」みたいな色眼鏡で見られてもいたのであります。
しかし、マルクスの史的唯物論的批判(ガチのキリスト教反動系の思想です)みたいな話はフロイド心理学にはありませんし、症状の関連の中文化人類学的側面として宗教が登場するだけでありまして、個々人の信教の自由を云々するつもりも取り立ててコメントする意味も無いのであります。
(※リビドーを狭義の性欲と勘違いされてしまったのも宗教界からお叱り受けましたが、勿論そういう意味では無くリビドーは広義の性欲の意(哺乳類特有の生存全体に関わるモチベーション)であります。)

※心理学固有の問題ってか、、、いえいえい問題では無いと思いますが「分析者がトンデモなレベルの第三者であるという立ち居地」から、心理学やっている人間は構造論的に総じて無宗教になりますので、ガチで宗教やっている人から批判されると「困ったな〜と苦笑するしかない」な弱点があるのは確かかも知れません。

繰り返し書いておきますが、
●心理学とて勿論の事ですが「文化として伝統宗教などの存在」は認めるところです
そして、現実世界においてそれは運用上『共同幻想』に関連付けられており(てか典型的『共同幻想』のひとつ)、心理学では無く社会学や文化人類学的に疑う余地無くそうなります。
社会学的に、多数により社会化された概念は=『共同幻想』なので(伝統宗教では無く個人がひとりだけで個人的宗教を信じている場合は例外となる)、伝統宗教のカテゴリーはその戒律や教義の共有において『共同幻想』に分類されるのであります。
(細かい事言うと、宗教者の中でも内部において”神学”のような哲学系をテーマにする場合は「対峙する形式や共有の社会性の意味が違ってくる」ため例外事項になってきます。)

■伝統宗教と現代社会を考えた場合となると、ぶっちゃけ「葬式と墓をどうするの」ってベタな需要に対して非宗教セクターは積極的な答えを持っておらず、結婚式などもそうですが「特定儀式などを司る産業」としての側面もありますので、先進国において宗教が”産業”として成り立たなくなった時、ひとつの転換点を迎える気もしますが、そこはそれ葬儀など式典というか儀式的なものを専業にしている他産業などありませんから、宗教系の関連法人などが「それらしくそつなくこうなってます」なメニューとともに”宗教的サービス”を提供するなんて時代になっていくのでしょう。
(果たしてどんな形で残っていくのか「それこそ神のみぞ知る」って話です。)

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タグ:共同幻想
posted by kagewari at 10:15 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月06日

抑止力の心理学

事を起させない、やめておこうと思いとどまらせる心理。
何かにつけてそういう戦術は使えるものでしょう。
少々インチキ臭い抑止力は「はったり」かな。
効果だけ言えば「はったり」も「抑止力」も同じでは無いかもしれないが、まー似たようなものでしょう。

安全保障における定番「抑止力」におきましても、
「こうなったら本当に使う」事を公開してみたり、「ほとんどその存在バレバレなのに”有るとも無いとも言わない”」と宣言してみたり、「有りそうと思わせたのはいいが、本当は無くて、後から困って無いと言っても誰からも信用されず」ガチで攻撃されたり、まー顛末やその運用もいろいろです。
中には「マジものがあっても誰も真面目にとりあってもらえない」なんてケースもあったりします。
つまり、
「抑止力」と言っても運用面における「はったりやブラフの手法」がコケちゃうと「相手に警戒させようと思った根拠が本当に存在してもクソの役にも立たない」のであります。
(インチキどころか「はったり」こそが「抑止力」運用の本質と言えるかも、)

だとするなら、
「抑止力」なんて代物は「根拠となる具体的中身は”実は嘘でもいい”のである」。
(この論議もガチのレトリックですけど、、)
逆パターンを考えてみると?
「根拠となる具体的中身に拘り続けて全く抑止力を獲得できない」となります。
■さて、お題が二例出たことになりますね。
前者で言えば「嘘がバレたらどうすんの?」
後者で言えば「根拠となる中身に拘るとするなら、安心する水準を失うってことにならないか?」

なかなか面白い話になってきたので、その先を考えてみましょう、
●前者の「根拠となる具体的中身は”実は嘘でもいい”のである」から、
「嘘がバレたらどうすんの?」
「嘘じゃなければいいのでわ?」
「嘘じゃないものがあるのなら実は嘘でもいい”のであるなどと言うのは間違いだろ」
これやると完全なレトリック話になるのので大概にしとかんといかんのですが、、
たとえば、
「我が方には命中率100%の対艦ミサイルがある」と宣言したとします。
上記の言葉には「何に対しての命中率なのか、ミサイルが何発あるのか」この二つに触れていません。仮に「発射台直上の紙の的に命中率100%の対艦に向ければそうならないでもないミサイルを(ロケットとも言う)一発だけもっている」を省略しただけなら、嘘でもいいのでありつつーの、嘘では無いとなります。
何も敵方に懇切丁寧な注釈つけて説明する親切さなど必要ないのですから。
典型的っていうと政治の世界なんかが実際そんなもんでしょう。
(ほぼ同じような言った言わない話が「大阪都構想の自民代用案」で起きてます。)
日本社会特有の「前向きに善処します」みたいな「何を言ってるのかさっぱりわからない煙幕言語法」みたいなんもありますしね(笑
いかに”賭け”(自己責任担保)の重さが増す力がデカイのかがわかります。
究極の”馬鹿賭け”は(貯金なんか1円も無いのに)「全財産賭ける」って宣言する奴でしょうか。
上記のように”喧嘩上等”「抑止力強そうな人」に共通する特徴は何でしょう。
 ↓
「根拠も無いのに自信家だ」あたりかな(或いは堂々としている)。
まさに逆説、
この人物が何故に自信家なのか?
「根拠となる具体的中身は”実は嘘でもいい”のである」と思っているからです。
自信の根拠を彼は必要としないのですから「そりゃ”常に”堂々としていられるワケだ」。

●後者の
「根拠となる具体的中身に拘り続けて全く抑止力を獲得できない」
「根拠となる中身に拘るとするなら、安心する水準を失うってことにならないか?」
この論議となれば、以下の展開が鉄板の流れかと思います。
 ↓
「拘るぐらいですから中身は具体的です。具体的中身って言ってるじゃないですか、馬鹿ですかあなた」
「それは”あなたが”拘っている具体的事象でしょ。それが相手に対して効果的であるって根拠はどこにあるの?エスパーですか?」
「私が、それがあれば安心できるんです。それでいんじゃないですか?」
「いやいやいやいや、周囲がそれを警戒して始めて抑止力でしょ。あなたの論議は自分が安心する兵器を装備したら安心できるのであって、仮にそれを周囲が馬鹿にしていても構わないって事になりますよ。」
「いんです、抑止力って話になっているから、こういう話になりましたけど、私はそもそも抑止力とか重視してないし、普段から考えた事もありません。」

つまり「根拠となる具体的中身に拘り続けて全く抑止力を獲得できない」←これ正解なんです。

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posted by kagewari at 22:29 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


『住まいの心理学』
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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照

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