2015年07月08日

ワーグナーとへヴィメタル

私クラッシックに関してはCMで耳にする程度の知識ですから(笑、突っ込みどころ満載かと思いますがそこはエントリーの趣旨とは違いますのでご容赦ください。
さて、大げさな音楽と言えば「マーラーであったりワーグナー」が思い出されます。
いかにも権威性『共同幻想』真っ盛りのドドーンとした構成。
実際にワーグナーはナチにも利用されというかワーグナーの周辺自体民族主義的なサロンと化していたなど(その関連で哲学的に全く民族主義と無縁のニーチェが超人的妹の画策でナチに売り込まれたなんて逸話もあります)、モーツアルト時代における宮廷音楽というよりハリウッド大作ばりの帝国音楽てな勢いでもあるのでございます(神話性や偉大性的強調や過剰化)。
そんなドイツ人がロック系においてヘビメタ好きなのも有名で、時に環境云々などでも極論に走るドイツ人の社会的ビヘイビアーに強い権威性(規律性)のなんとやらが介在している様を感じざるを得ないところですが、マーラーやワーグナーがスケールの大きな音楽の大御所である事に異論は無いでしょう。ちなみにヘビメタも教会音楽張りの様式美が特徴でもあるので、その容姿とは別に”印象化・様式化された権威性”のような強調表現あっての世界観かと思います。

■『共同幻想』崩壊論においては、
日本の歌謡界の変遷がそこに符合している事を折に触れて書いてきましたが(美空ひばり先生のような大御所・国民歌手と呼ばれるような存在は現代社会には台頭しない論など)、欧州の動きを見てもそこは顕著です。
個人的には「結局活動家になった歩留り野郎」だと思っているサルトルあたりがお盛んな頃、米国においてはヒッピームーブメントであったりですね、モダンJAZZなども盛んでありまして、当時の風俗を眺めるとさしずめ「モダンJAZZは実存主義の音楽」みたいな側面もありました。
そんなこんなが起きるさらに前、
クラッシック界にはドビュッシーやラヴェルという印象派(でいんでしたっけ?)が台頭します。
それこそマーラーやワーグナーと好対照であり、てかそもそも印象派なるものはJAZZやブルース他世界の民族音楽(=非権威性音楽)の影響を受けており、そこを先取りしたって赴きです。
ここんところはラベルのひと世代前ですか、絵画における”浮世絵の影響を受けたゴッホがどうした”みたいなのもありますがここ相似形かと。ラベルと同世代はピカソですね。
(ちなみに文壇の方は実存主義の元ネタとなるアルベールカミュがラベルの更に次の世代ですね。)

ラベルのwikiに面白い引用があったのでそのまんま引用しますが、
1928年、アメリカとカナダの25都市の大きなコンサート・ホールでピアノ公演を行なうため渡米した際も、アメリカの作曲家達に「ヨーロッパの模倣ではなく、民族主義スタイルの音楽としてのジャズとブルースを意識した作品を作るべきだ」と述べており、一説によればオーケストレーションの教えを乞うたジョージ・ガーシュウィンに対して「あなたは既に一流のガーシュウィンなのだから、二流のラヴェルになる必要などない」と言ったといわれている。

  ↑
■これは心理学的に言えばとても明快な(単独者論的な)『歩留り論』ですね。
(依存的帰属では無く、普遍的帰属性を「そのままに・なんてことなく」確信犯的再選択するべきだ、みたいなね。)

更に現代社会においては「それこそボーダレス」と申しましょうか、ミニマルコンパクトと言えばいいのか、音楽も「身近に小スケール化」しており(某アイドルグループの発案もキャバ嬢並みに身近な存在とする小スケール化戦略で成功してます)、音楽の”規模”が本質的なスケールに回復(縮小して適性値ですから)しているとも思われで、
ネット社会における「演奏してみた、歌ってみた」などの風俗はひとえに(何かに承認されるだの評価されるだの抜きに)「好き勝手に音楽やってます」な方向性を示唆しています。
(※実際のところはまだまだアクセス数など気にしてどうこうも大量にあるのだろうけれど。)
ボーカロイドソフトの普及もそうですし、昨今ベストセラーとなったラノベが元は無料のネット小説だったりもする。
「普遍的帰属性を「そのままに・なんてことなく」確信犯的再選択するべき」みたいな『歩留り論』も選択肢に過ぎない事(それもアリだけど的範囲)が示されているように思います。

■更に突っ込むと音楽演奏スタイルそのものの『共同幻想論』もここに関係します
「オーケストラによる偉大な演奏」←これまさにオーケストラという社会に帰属し個別の役割を担うことで(ソロパート以外)、合奏時に驚くべき奇跡が起きる。そして演奏する譜面は権威性が担保されている偉大な楽曲であり、、、←という「ひとりではオケを演奏できない」って図式ね。
(同時に偉大な指揮者はカリスマとなる。←王権神授説的『共同幻想論』とも言える。)
そもそも近代以前はPA(音響)もなければなので、箱物としてのオペラ劇場なんかの舞台装置もインフラとしてその一部を構成していた(だから王家や貴族がこれ造った)。まさに国家的事業の『共同幻想』スケールですよ。
しかし文明化によりPA(音響)の登場、ビートルズみたいな少人数でも演奏ホールに関わらず大音量の音楽を演奏可能になった。この点だけでも時代がさ、
 ↓
現代社会においては「それこそボーダレス」と申しましょうか、ミニマルコンパクトと言えばいいのか、音楽も「身近に小スケール化」しており
 ↑
ここに推移していくのがわかるってもんです。
(モダンJAZZ台頭ぐらいの時代だと、ホールから小規模クラブへって庶民の文化水準の趣味性向上に追随していく様「音楽の市民化みたいな」社会学的動きに合わせたものと見てもいいかもだけど。)

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posted by kagewari at 17:24 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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