2015年03月21日

『起承転結』

<かなり仮説・試案に近いものなので正確性とか詰めがダメダメの話です>
フロイド心理学唯一の勘違いとも言える「死の衝動」関連とも少し被るか、、な側面もあるので書き残しておこうと思う。
ネタ元は「刑事ドラマの構造」です。
ドラマが視聴者にとってひとつの完結性(これが不足する状態を不安性と定義してみる)を認識させているのは「不慮の死を遂げた被害者の物語性に”結”を与える乃至それによりサルベージされる”ある種”の完結性があるから」と見ることができる。
つまり「なにがかくかくしじかあってそれは”こういうことだった”」という結論というか”結”だよね。それは単純な完結性とは違い、この概念ってのは実のところ「宗教性権威主義的『共同幻想』が無意識的に暗示されている」と考える(そもそも往年の刑事ドラマの主人公は道徳家だったり哲学的に思慮深い人物設定だったりする)。
「最後の審判」は大袈裟だが「人生のの報告性(どのように語ればいいのか的な)」とでも言うのかな、或いは説明責任でもいいかもしんない(こちらも権威性を背景にするよね「説明責任と自己責任は場合によっちゃ相容れない概念だし」)。
話の発端を分析してみるとだ、「非業の死」が非業である部分を単純に「快感獲得の量的喪失を哀れに思う」だけだとした場合、刑事ドラマでその唐突に終わった人生の後を刑事が引きついで何かの解を得る構造を見ても視聴者はそれこそ単純な完結性を得られない。
仮に後者であれば、「喪失した快感量の弁済なり賠償なり」が中心にならなければ意味が無いからだ。
しかし刑事ドラマの構造は「こういうことだったのだ(その最大の要件が犯人の逮捕)、」とそこで解というか結が語られるところにある。←しかも「なんつーか被害者の人生が語られるのでは”無く”もっぱら犯人が誰でその動機が何か」が焦点になっている。
この”結”なるものは、前述までの説明にあるとおり”語られてナンボ”の構造となる以上「それを誰に語る想定になってんの?」と考えるわけだ。いきなりそこに神の定義が登場することは無いのだけれど、仮にそれが友人であろうとなんらかの評価や評論みたいなところに乗っかるから意味が成立するのであって、物言わぬ故人が個人的に使い道ってか用途の無いものだろう。
(●なんての?犯人が誰かの方に重要性が高いってのは「それがわからないと愚痴も言えんだろうが」のような「非業に対する完結性」になっているよね。←勿論死は受動的だから「普遍的にその構造は被っている」という側面もあるかもしんない。)

でー、この刑事ドラマにおいて(視聴者からがそうなんだが)非業だと騒いでいるのは当人では無く、その周辺なのね。つまり生存者にとって関心事項になっているとこがキモ、
ぐるーっと回ってその意味を考えるとだよ?
「どういう結があるのか?」これが現在進行中のモチベーションなり動機形成のコアになっていると言い換えられる(ある意味刑事ドラマの被害者の非業感は主人公の刑事と視聴者が感情移入により代弁していく形式になる)、関連性だけで言えば「結=死」なんだから、AIやロボットSFやら古くはブレードランナーでも語られた「人は死ぬからほにゃららな価値を得る」みたいな発想だよね。
(※意味わかり難いね、、刑事ドラマにおいて「普遍的とも言える死そのものを非合理だ」のように認識する視点は無いのさ。なんらかの結があれば死という非合理性は余裕で合理化されるぐらい「語られる形式」が重要になっている。これは逆説的に生の概念がその説明性というかなんらかの結により合理的に成立しとると→動機形成のコアになっとるよね。つー事。)

大雑把に言えば「死があるから生がなんとかだ」という発想。
(ここだけ引っ張るとよくあるチープななんとか論みたいで実につまらないのだが、故に『共同幻想』ドラマだよねを暗示もしている。)
ここで冒頭に戻るんだが、この発想には「宗教性権威主義的『共同幻想』が無意識的に暗示されている」のですよ(ぶっちゃけわかりやすい設定なら主人公の刑事は正義の味方なんだから)。←更にその元ネタは「死の不安(非合理性)」から逃れるための概念なんだろうねと(一種の反動形成込みで)、
つまり”ある種”の完結性によりそこが合理化され得るんだよと、

更に真っ逆さまにすると「死の不安が身近だとやたらに『共同幻想』的評価なり評論なり、自分の人生の意味なんてな空理空論が大いに盛り上がる」って事になる。
(※実際の話メンタル問題において「鬱ネタが欠乏した時に、唐突というかいきなり死について語りだしたり、それに類することをやたらと話だしたり」って現象があるし、自殺衝動も関連事項だろう。←前述の逆さまをもう一度逆にしたパターンだよね。)

これに対して「実存主義型の『単独者』」は”結”とかに全く無関心になります。
「『単独者』は刑事ドラマを全く楽しめない」ワケじゃないけどさ(笑
(ネタが知能犯の場合には少なからず犯人に感情移入することが多いかもしれない。←もう随分昔になるけれど古畑任三郎や更にその元ネタである刑事コロンボがこの形式をモチーフにしている。演出上主人公の刑事は滅多に正義感や道徳性を表に出さない。)
少なからず、勧善懲悪的水戸黄門のような世界を『単独者』が倦厭する傾向あるのは事実でしょう(水戸黄門は刑事ドラマじゃないけどさ)。
フランスにおけるフィルムノワールじゃないけれど、実存主義的なんとやらが盛んになると犯罪者視点のあれやこれやとなるのであって、これサブカル的風刺視点なんだろうね。
ご存知のとおり『単独者』は結果に依存せず選択過程それ自体が全てなので(今その自由意志で何を選択する者か?)、結論については「後日談」的意味でしかない。←物語構造としちゃその結論なんてスピンオフ程度の意味でしかないつー在り方。
(※話の落ちや複線の回収に失敗して困った時の最終回ネタ「俺たちの戦いはこれからだ」になっちゃうパターンは言い方変えると『単独者』的まとめ方とも言えるかもで、乗りとしてはロードムービーみたいな?落としかたとなる。)

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posted by kagewari at 21:06 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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