2014年07月30日

『モノが壊れるといい事がある法則』part2

放送大学で実に興味深い統計行動学?とやらの話がありました。そこでpart2はカテゴリを心理学テキストに切り替えてます。
いやはやそんな学問があるんですね、世の中は広いです。
(統計系の経済学やっている人には市場などのグラフ見る時の常識らしいっス)
実際何時見たのか記憶も定かじゃないのですがww、どうやらHPで確認すると以下ですね。
教養学部の心理と教育コース
錯覚の科学('14)
http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H26/kyouyou/B/sinri/1528939.html#syllabus

講義概要
私たちの脳が認識する世界と、客観的な世界にズレが生じる現象が、「錯覚」である。心理学の諸研究は、視覚や聴覚といった知覚を中心として、記憶や思考などさまざまな心的過程で生じる錯覚の特徴やメカニズムを明らかにしてきた。これらの研究成果を、心理学だけではなく美術史などの多様な分野から紹介し、錯覚が私たちの日常生活や社会、文化、芸術に与える影響を学際的に検討する。これらを通して、人が世界を認識する独特の仕組みについて理解を深めていく。

放送大学って徹夜明けだとかの何かの拍子に環境音楽的につけることが時々ありまして(建築関係なぞは某別ブログで随分と参考にさせてもらった事あります)、当たりを引くと面白いんですよね。
で、この時の講義は「10.身近な情報の錯覚」だったかなと思います。
■これがフロイド系心理学にも実に参考になる話でした。
(菊池聡教授は詐欺事件の構造的にマインドコントロールやらの理論も説明しているようです。)
興味深い理論に『平均への回帰の錯誤』というのがありました。
それこそ「永劫回帰かよww」って一瞬思いましたが、ざっくり説明すると「グラフを短期で見るか長期で見るか」みたいな認知の錯誤の話です。
水準となる平均値に対して事象は常にランダムな要因があるので、誤差範囲は予測不能です。勿論それは長期的に平均値へ収斂するというか、そこに平均値がある事が長期的グラフではスムーズに認知できますが「短期的現実に直面している自我はランダムに誤差範囲で変化する現実に対して自分の関与を意味づけしようとして錯誤行為を引き起こしてしまう」って話です。
(うーんと簡単に言えばランダムな誤差を含む短期観測〜〜〜〜波形を10倍などの長期間グラフにすると-----------と平坦な平均値を示しているんだが、短期局面の〜の1点を見れば「大きな乱高下が観測されていると思ってしまう」みたいな話。)

■講義では随分面白おかしい事例がいくつか紹介されており、
●某大学のサイコロ実験
サイコロの出目は平均にランダムにしかなりっこないのだが、大学生に「大きな数字が出るように応援してもらった場合の実験」→すると25%もの学生が「応援の結果大きな数字が出ることがある」と思い込んでしまい、中には「こんな事信じていませんでしたがオカルト現象ってあるんですね」なんて話を言いだす始末の学生まで現れるという話。
●褒めて伸ばすか叱って伸ばすかの実験
ランダムな変数でしか無い状況にその都度叱る褒めるのアプローチをしてもらった(現象はこの関与に無関係にランダムなだけ)。この時アプローチした側が「褒めると叱るとどちらに効果があると思い込むか?」などの実験。→事象は〜〜〜とランダムに上下しているので「よくできた時はグラフ頂点で褒める」となり(この場合グラフの次の変化は”必ず下がる”)、「できが悪い時にはグラフ下転で叱る」となり(この場合グラフの次の変化は”必ず上がる”)、被験者としては「褒めると下がる、叱ると上がる」を体感するため→必然として「褒めても効果が無い(下がる)、叱ると効果がある(上がる)」と思い込んでしまうって話。
 ↑
この辺が『平均への回帰の錯誤』

他にも激しく叱責した場合と、最小限度の関与で行動の修正に成功した場合の効果の統計分析なんて話もしており(うろ覚えだけれども効果があるのは最小限との関与の方←分析によると「指摘されたのではなく”自分で間違いに気が付いたと錯覚”するため」との話だったかな?)、なかなか面白かったですよ。
後者の話は心理学的に解釈すれば『依存と自立』なので(過去ログが読めるメールカウンセリングの有効性とも言える=「自分で気が付いた錯覚効果」)簡単には心理学的問題の対処補強に使えないのだけれど、前者の『平均への回帰の錯誤』はそのまんま使えますね。
(※前者の点で言えば「どうやってカウンセリングなどの利用頻度を一定水準までに制限するか」という依存性リスクの管理がテーマになるので、有料メールの単価を切り上げるなどの対処が考えられるのだけれどなんとも難しいところです。有料メールと『公開掲示板』では依頼の動機が違っているので一概に比較はできないのだが、依存的頻度の上昇リスクは無料の『公開掲示板』の方が大きい傾向があるのは確か。その反面『公開掲示板』は公共の場であり不特定多数の視線にさらされている抑制効果もあるため、少額で可能な有料メールの運営を最も問題視すべきかもしれない。『簡易相談』なんかの場合は「街角の占い」程度の水準をベースにしているんだが、詰めて考える部分もあるだろうね。)

参考リンク
平均への回帰wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/平均への回帰
回帰の誤謬wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/回帰の誤謬



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posted by kagewari at 13:14 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月26日

追記的に『共同幻想論』会話編

どうにも前回のエントリーが補足編集すればするほど泥縄的に収拾がつかなくなっていたので、整理する上でまとめておきます。
■『共同幻想』は”ひとつの社会学的な現象”であり、
ゲマインシャフト(同族社会)からゲゼルシャフト(利益関係共同体社会)への変遷の中であたかも「氏族伝来の共通の神話(或いは先祖への信仰)」から「合理性という社会性の発見と幻想(最強なのが信用創造と通貨)」と変遷し、これが「自由・人権・個性化などを重視する先進国化の中で更に解体されていく」という過程にあるワケです。
その意味で通貨に関しても社会学的な『共同幻想』変遷として見た場合「金本位制(ブレトンウッズ体制)」から「変動相場制への推移」もこの流れを反映したものです(そしてビットコイン)。

■『共同幻想』社会の会話が”予定調和・総論賛成”を前提にしており、ぶっちゃけプライバシーは「風呂とトイレの中にしかない」って話も通貨で考えれば簡単で、
「ハイ500円(そうですね私もこの貨幣は500円だと思いますよ)」←500円に対する予定調和が『共同幻想』会話の特徴で、
この時
「ハイ500円、これが500円通貨ですって?私の500円通貨は」←この瞬間「金融政策に対して国家的な挑戦をしている事になる」んですよ。
※「勝手な貨幣を流通させたり、偽札が重罪」ってのは=国家反逆罪的な『共同幻想(予定調和してナンボ)』に対する破壊活動になるからです。

(※更に付け加えると、イスラム教徒が「豚肉が食べられない」話をしているとして、この時イスラム教徒にとって豚肉が食べられない事は宗教上の戒律であって(論議の余地なく肯定しなければならない戒律であり予定調和どころか”絶対”の掟)、その場で「豚肉食べられなくて大変ですね、”私は”豚肉大好きですけど」などという返しが始まると「すわイスラム教全体に対する冒涜か」って誤解連鎖にもなり兼ねないワケですよ。『共同幻想』社会の会話は基本原則として私語禁止なので(予定調和返しが公的義務)、個人のプライバシーに関わる論議やネタ振りを誰もしていないのです。←極論すると「所謂”そのままの意味で”会話している人はいない」とも考えられる。)

そして、
■『共同幻想』社会が頻繁に誤解されるところに(イジメ問題などで傍観者が多発する構造や悪徳企業に間違って就職したらなんとなく悪徳業務にも真面目に取り組んでしまう構造も同じ)、ほとんどの会話が「個人的意見では無い、間違っても本音では無く『共同幻想』予定調和であるタテマエを個人の台詞に編集した程度のもの」であるところです。
何気にこの会話が個人として発せられていると誤解されます。
(勿論言ってる当人は自分が自分の意思で言葉を発している自覚はあるんですが、その内容は無意識に拘束されている=自意識抑圧が構造化している。)
それをネタバレ的に表す言葉がこちら→「そんな事を(個人的な意見など)この場で(共同幻想的会話場面)言えるワケないじゃん(その権限が無い)。」
極論すると「何も話されていない」「誰も話していない」→いつもの『共同幻想』予定調和が台本どおりに展開されているだけなんですよ。
(なので台詞の内容を妙にシリアスに受け取るだとか、台本趣旨から外れる発言やスタンスは物凄く目立つワケです。)
それから台本の内容(所謂空気って奴ですね)これが殊更難しいって事もありません。
「基本、予定調和の追従であればよい」のであり、
むしろ「元気よく、調子よく、テンポよく」のグルーブ感の方が内容として求められており、発言内容にそもそもこれといった意味が無いのですから台本の内容を殊更考える必要はありません。

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posted by kagewari at 21:05 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月18日

コメント欄の削除があった件(関係障害について)

以下エントリー
2014年07月03日「集団的自衛権の行使容認」というわかり難い文章
http://kagewari.seesaa.net/article/400950154.html

同記事コメント欄に記事と関係の無い「削除を前提とする投稿」が連続した件

返信元コメントは投稿者希望で削除を前提としており、記事と関係の無い書込みであったため削除し、返信だけを(心理学的説明となっていたので閲覧可能なように)表示させていましたが、引き続き「私の返信に対する削除(と別途転載)依頼」が連続する状態に至ったため、経緯説明だけを残し依頼のあった部分のコメントを全て削除しています。
■私の返信部分は前述のとおり「心理学的説明」となっていましたから同箇所のみ(心理学テキストの記事となり得る水準ですから)編集し別途記事として以下にまとめます。

私のコメントは「関係障害」などにおける『共同幻想』社会などの場面における誤解発生プロセスの説明です。
 ↓(今回のまとめに応じ再編集されています)
「(聞く側から言えば会話構造として)普段から別途論議になっている話しの言い訳」になってちゃっているという話です。
(勿論言い訳などする意図は無くやり取りの中で会話構造としてそうなってしまうという話)
ポイントは主語にあります。
『共同幻想』社会における”なにげない会話”において期待されている返事が
「なるほど、あなたはなになにですね」となる状況で、
(そこの表現に何らかの強迫フラグが偶然含まれておりこれに無意識に『被(こうむる)』形のリアクションが発生し)
「私は何々なのに、あなたな何々だ」となってしまうと文章の意味は大きく変化します。
主語として「あなたは」が期待されているところで、「私は」で始まる返しをしてしまうケースです。
この状況は『共同幻想』社会にとって、発言趣旨が180度級逆さまになるほどに誤解を招くケースがあり得るんです。
言うならば、あたかも「極めて最初の発言に対して(自分の事では無く相手の発言に対して)批判的意図がある」かのように解釈される場合がある。

■特に、予定調和を意図した『共同幻想』同士の会話が前提の時には、そのやりとりは『連歌』や『輪唱』や『ユニゾン』のような流れが主な目的だったりするため(田植えの時に全員で民謡を調子よくうたう場面そ想定してみてください)、「実のところ最初の話を振った当事者も事さら何か言いたいことは無く、会話の目的そのものが”ハイ次の人”」的なケースは存外に多いのです。
「だよね〜」「そうですね〜」があたかもグルーブ感伴って、、のような想定が織り込まれる。
「いつもお世話になっております、つまらまいものですが。」このシーンで自分に向けて個人的に意見を求められていると感じる人はいない。→まさかその場面で「わたしは何々ですから」のような返答が続いたとした場合の違和感で想像してもらえればわかりやすいかと。
(これは民謡などの「あーちょいな」「それからどうしたっちょいな」みたいな掛け声の期待値とほんとんど同じ)
基本的に会話の目的が(意見交換目的では無く「会話の目的そのものが『予定調和』の継続感」など)追従的内容(総論賛成・広義で肯定)であることが前提となっていて(米国英語で言えばyou know連発状況)、極論するとそこで唐突に個人的意見が含まれた切り替えしをする事は”別の意味”でタブーだったりします。
 ↓
つまり『共同幻想』予定調和場面で、主語が「私は」から始まる返しをすれば「もうその段階で場面全体に対して重大な批判性のある返しの形式」になってしまう場合があるワケです。
(何故にこの場面で、個人的意見の披瀝になってちゃうの的な←誰もそんなネタ振りしていないよ的に。)
しかもその返信には「強迫心理ワードのフラグ」に反応したものですから、文章的にも反射的に反論調の語尾がくっついたりします。
勿論この発言は「ネタ振りされた話に対する返事」であるため(自分から目的をもって発言したものでは無い)、返事をした当人が詳しい発言経緯を覚えていない場合も珍しくありません。

それは「いきなり反論なの?」だとか「ここで何々の件の言い訳始めるとかどういう趣旨?」などの誤解を波及させます。
■ある意味『共同幻想』社会の会話には暗黙のルールがあったり、「共同化」「共有化」「共同体感」などを運営する目的の場合が大半で(ある意味個人的意見の吐露はオフレコ扱い)、この時必ずしも『共同幻想』適応意図の無い個人が「なんの話ですか」と関係すると、有り得ない誤解を招く場合も少なくないので(留学生との会話のように別世界の『共同幻想』適応者とのすれ違いや誤解連鎖も同じ仕組み)、「ムラ社会的しきたり」のようなめんどくさい状況が多々あるのは事実で、『共同幻想』適応者間でもなにげにそれはストレス認知されていたりします(たとえば『公園デビュー』の緊張)。
『共同幻想』で言うところの「習うより慣れろ」なんて言葉もこの辺の状況表すものだったりするのでしょう。
注:『共同幻想』の代表格である「体育会系」などでは”その社会特有の言い回しや口調”が頻繁にみられるのも同じ仕組みです(「ちょ〜ス」だとか「返事は異様に大きな声でですます調」などなど)。

結果として、発言内容以上に『共同幻想』社会の会話ルールとの齟齬が影響して、相手に「思わぬ強い反論表現(或いはネタフリ当事者に対する強い批判だとか侮蔑)」として理解される事があるんです。
■だから殊更どうしたって事では無いのですが、
仮に「適応強迫」で内心望まぬ関係性からその状況が発生しているだとか、
依存性から結果的に「適応強迫状態」にある場合など、
同様の誤解連鎖は「半ば最初から織り込まれいる」事になる。
(関係障害ってのは半分『共同幻想』社会の特徴が相対的原因にもなっているという意味です。)

と言いつつも、
■彼らの反応には「自分の潜在意識下の強迫心理の何のフラグが反応したのか?」を再確認できる情報も含まれるので、殊更に関係悪化した側面ばかりを見るのでは無く事実認定として「あれれ?何がどうしてこうなった」を考えるに足る部分はあります。
(勿論一方的に自分が”いい悪い論”的に自己嫌悪ネタ化するのは”好ましく無い”)
基本的には「やれやれなんだか面倒な事になったぞ」なのですから。
(更にやれどう言われた、こう言われたなどの『被(こうむる)』ベースの認知が宴たけなわになるのは「あり得ないほどナンセンスなこと」です。)

更に付け加えると、
■『公開掲示板』などのログでお馴染みの『知人の話禁止』というのがありますが、
この『知人の話ネタ』というのが、前述までの誤解連鎖を利用する方で(むしろ強迫心理が率先して)それを引用した話を展開するケースもあります。
(構造的に「非常に高い確率で鬱ネタを確保できる」)
「知人の話ネタ」に強迫的思考にキャッチ―な話があれば(それみたことかやっぱりだ的に)それは唐突に『確定的事実』であるかのように認知され、何故かそういう時には「リテラシー効かせてそれって本当に有力なナントカか?」などの事実検証がすっ飛び(普段は「何故ですか」「わかりません」などどちらか言えば新事実に対して不安からくる猜疑心が目立つほどなのに)、強迫的思考の期待する方向にベクトルつけて認識が過剰化する場合もあるワケです。
極論すると、これって依存的に「適応強迫」が発生する裏コードである場合もあり(無意識に関係悪化する関係性が既成事実化されているなど←このイメージが「強迫心理」により追体験に再現されている”いつか見た心象風景”)、
「あーあれれ、何々が出ちゃったかこれ」とかのダメ出しネタの情報収集として考える場合、そこには様々な背景があるって事です。
 ↑
(※上記における条件反射的な「それみたことかやっぱりだ」という部分は構造的に『共同幻想』社会の会話における予定調和と似ており、民謡調で言えば「それみたことか〜やっぱりねっ」のような韻を踏んでおり、「強迫心理は」同じ心理構造によって「自意識の発言を抑制している」「強迫心理に対して予定調和しか認めていない」というような状況が発生していると考える事もできるでしょう。)

■その意味で『公開掲示板』などのログでお馴染みの『一拍置いて考える』
この意味や意図はとても重要だし効果的なことなんです。
事実上「リテラシーすっ飛ばし型」条件反射認知を抑制・修正するわかりやすい手法であり、
仮に脊髄反射的な認知で「わかった事」にして放置されそれが習慣化すれば、
「わかるまで考える」というプロセスが自我に導入されないままになってしまうだけでなく、『一拍置いて考える』という行為が(ジャーナリストの心得じゃないですが)事実認知の論理回路として”まんま”抜け落ちてしまう事にもなりかねない。
『一拍置いて考えているだろうか(=即レス禁止)』この確認は大変重要な訳です。

■特に関係障害局面において”いい悪い論”が展開されるのは好ましく無く(もろに「鬱ネタ」ですから)、そもそも”いい悪い論”ってのは『共同幻想』社会の専売特許で「所謂共有化された雛形」に過ぎません。
(それもどちらか言えば『共同幻想』導入過程である小学校などにおける話です。『共同幻想』社会にも本音とタテマエはあるのであって、勿論その本音ってのは”いい悪い論”で割り切れない話を意図したものです。)
関係障害がらみで”いい悪い論”がバリバリ展開するのは反抗期不全で現実アップデートが行われていない「強迫心理が意図したもの」以外の何物でもありません。

忘れちゃいけないのは、
■『共同幻想』崩壊過程における『単独者化』が志向されている現代社会の場合(非婚・晩婚・おひとりさま・ノマド)、わざわざ『共同幻想』社会的関係性を志向する必要性は無く、「めんどくさい関係性から疎遠でありたい」という認識はかなり拡大してます(社員旅行や飲み会などの”付き合い”の忌避などもそうでしょう)。
その状況で「適応強迫」状態が発生する事自体からして問題視しなくちゃいけないところなんですから。
「疑いも無く収穫の時民謡を歌う集落」が→「民謡を芸能として愛聴する社会」となり→「古典芸能保存会運動に民謡も含まれる」となって→「一部音楽趣味性の高い人が民謡文化を掘り下げる」←こんな感じの推移となるのは文明化の流れの中で自然な事で、
勢い、何ら民謡と親和性の無い個人が(何らかの適応強迫で)「民謡の会」に参加して、会のルーチンワークの民謡歌唱時にやおら「は〜ぁそれからどうしたっ♪て何でしょうか。私にはわかりません、それからどうしただころじゃないんです。」←こうなってしまうような『場面上の乖離』って一拍置いて第三者的に考えれば「関係悪化とか関係障害以前に、その関係性の志向や選択からしておかしくないか?」って問題の核心がバックグラウンドにある事からネタバレ可能なんです。
(鬱事例などにおける「とにかく休職しましょう、可能であれば退社するのベター」というのもそういう悪循環化からひとまず安全圏に退避する目的あっての話です。)
『共同幻想』社会の会話というのはデフォルトで予定調和が大前提であり(フォーマル)、個人的意見交換がその趣旨になる方が異例なんですから(つまり「適応強迫」は関係障害以上の大問題なんですよ)。←お祭りなどで「共通の衣装(原型はユニフォーム)」などを着るのもそういう趣旨です(没個性化する事で構造論的に総論賛成の調和を”公式な形式”とする)。

■「何故そんな思いもしない不思議な事が起きちゃうのか」仕組みがわかれば、
「どっから考えてもこりゃ論理矛盾があるのじゃないか?」となり、←ここに気が付けば、
自立的に「馬鹿か俺」技を使うポイントがわかるようになってきます。
(「馬鹿か俺」ってのは”強迫心理切り”の自意識ワード)
いい悪い論などで宴たけなわになるってのは、上記のような『一拍置いて』省みる状況を感情的興奮により阻害するための(強迫心理の)防衛的反応と言う事もできるので、「”いい悪い論”がナンセンス」である事も基本中の基本です。

ここまで
(流石に返信部分だけだとまだわかり難いところあったので7/19・22と更に一部加筆・再編集しています)


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posted by kagewari at 21:19 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月16日

行動なんとかってのはどうだろう

有る時ふと「俺歩いている時ほとんど呼吸していない(凄く浅い)」という事に気が付いたww
まさに「馬鹿か俺」なんだが、
そう考えて見ると思いあたる不都合がこれまた多数。
有酸素運動が苦手だって話にも関係してそうな勢い、
(事の発端は姿勢が悪かったとかにも起因しているんだが、まーね若かりし頃の強迫心理に対する反射的なものの名残もあるのだろう。)
果たして意図的に「はい息して俺」と習慣づけることで幾分解決するだろうかと考えるワケだけれど(確かに呼吸してと命令すると姿勢を改善しようとするんだよね”生命としてのご本人”が)、習慣として身に付くには暫くかかるだろうね(これを俺は造語で「小脳化」とか適当に呼んでるんだが)。
そして頻繁に「あっ息しとけの命令忘れた」となるんだが、気が付く前に比べればそりゃ大進歩には違いない。

心理学系からはそれほど重要視されていないんだが、臨床系や行動学系かな?『行動療法』ってのがあります。継続的に日常生活の行動を『自意識マター命令』により意図的に方向付けて”その波及”で深層心理だとか無意識的なところにアプローチしようってものだけれど、
(まずね、条件として精神分析的なネタバレがある事を前提にすると思うんだけれどさ、)
確かに症状として自律神経失調系のものある人には有効かなと思う。
いや何もね『行動療法』なるものの早寝早起き的なものを支持しているワケじゃないですよ。個人的には「やっぱり考え事は深夜の方が捗る」と思っているから(若い頃も真っ暗なJAZZ喫茶通いしていた人間なので室内も薄暗い方が落ち着くし)、何も早寝早起きなんぞを習慣付けて何かがどうなるなどと思っていないけれど(仕事でも日常に課さない限り所謂睡眠障害などいう障害は無いと思っている←ほっっときゃどっかで人は寝るんだし)、気が付いた事を『自意識マター』命令で情報として脳に送るのは重要だろう。
(何かアプローチしておかない限り「無意識領域の関連付けが書き換わる事は無い」のだから。)

■自分自身の事に関して思い出せば「左利きを右利きに矯正された事を軽く見ていた」という話があった事を思い出した。
物心ついた時からこの話は知っていたのだけれど、せいぜいそれを意識するのは「体育の授業で走高跳をする時の助走が反対側だった」時ぐらいで、自分では疑いも無く「矯正されたんだよネタ以外に関係無いことだ」と思っていたんだわね。
この問題がアレじゃね?と気が付いたのは中学後半の頃だったように思う。
事の顛末というか情報として「俺が左利きだった時代、既に左手で右利き用のハサミを器用に使い工作やっていた」という話がある。つまりさ、脳内の無意識領域的に「左利きだけどOK」みたいなのは脳内でかなり進行しちゃっていたと推定できるんだな(事実子供時代練習なしで箸ぐらいは両利きでいけた)。
するとだ、
事の顛末に何があったのかは書かないが、まーね後から考えるといろいろ思いつく事多数(笑
(少なくともやれ試験勉強だのが真っ盛りだった俺達世代の思春期に「左目だけに極度の近視が進行した」とこにも関係あるのでしょう。)
ま、今でも苦手な事やその影響は残ってますが「いい歳の大人的にはどうでもいい事が多数」なのでどうって事の無い話なのだが、
確かに「こりゃどうしたことか?」と気が付く以前から「気を付けろ」と意識していれば、違う結果もいろいろあったのかも知れないと思う。

果たしてそれをさ「行動ナントカの信ぴょう性」とかにもっていくつもりは無いのだが、
自意識の仕事として脳の方にだね「なんとかこんとか傾向あるから宜しく、これ重要だから」を送り込んでおくとかで手抜きしてると「無意識領域の関連付けもそのまま」になっちゃうワケだから、脳に言っておくべき事はしつこく言うのが吉だわね。
そこ関連で『自意識マター』命令で実際に行動させるって話の有効性に及ぶだろうと、

「俺は歩いている時、呼吸が浅すぎる」
テキストに残した事でいくらか浸透したでしょうかね?


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posted by kagewari at 23:39 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月14日

風まかせでも何気に選択のキッカケになる場合がある

『縁とか運』にも関わる事なんだが(厳密言えば縁や運なんてのには無意識的な動きが関わっているのだろうけれど)、自宅のオーディオスピーカーがちょっと特殊で、
簡単に言えば「オンボロ中古スピーカーのユニットが壊れる度に入れ替えられて、ついにSPユニット全てが全く別物になった」という代物です(もう機種名語る意味も無く)。
当初からラッパの音を再生するためにどうしてもツィーたーをホーンにしたかったものだからツイーターが壊れた時に躊躇なくホーンツィーターにしたんだが、PA用ホーンは高能率だから高域のバランスが取れないままのいい加減なシステムだった。
それでも強すぎる高域はラウドネスみたいなピークのあるものでは無いので「6db前後の能率差とかそのままでもいいかな」なノリでかれこれ10年近くだろうか、そのまま使ってきていたのだけれど、
ひょんなことから某所で新しいスピーカー導入しようかと検討していた時、どうにもコストが割に合わないのでどうしたものかと考えなおしていたところ「小型フルレンジ用ボックスにコーン型ツィーター入れて増設してみたらいいのでわ」と思い付き、すわ6db/octのハイパスフィルター用にフィルムコンデンサーの安いのをヤフオクでゲットした。
残念ながら希望のクロスオーバーとなる容量のコンデンサーは入手できず、コストとの折り合いで妥協して想定よかかなり小容量となっていたのだが、、。

その後1週間ぐらいかしら、「あれれそう言えば自宅スピーカーのハイ上がり(高域強すぎ)、これってクロスをも少し高域にずらせばいいって事じゃね」と思い付いた。
あら不思議、手元に「本来はもっと容量大きいのが欲しかったけれど値段で妥協して入手した小容量のフィルムコンデンサーがあるじゃないですか」(笑
入れ替えればいいじゃんって事になり、
相変わらずクソ下手糞な半田ごて作業を開始、使用中のを取り出し小容量のものと入れ替え。
ハイ上がりが完全に解消するものじゃないのですが、そこは箱の上に乗っかているだけのホーンツィーターですからどうにもなるのです。
そして「大成功」
(果たして某所にて増設予定のツィーターに交換した容量のコンデンサーでうまく繋がるのか、そこはまた別に保証の限りじゃないけれど、、)

実はその直前に「現代なら10万クラスのアンプと交換してもバリバリ使える3千円以下のデジタルアンプ某機種」を導入して気を良くしていたので「高域強すぎるんだから、夢のマルチアンプでやってみるか」などと考えていたのですが、ぶっちゃけヤフオク500円でゲットしたフィルムコンデンサーの交換で解決したってワケです。
(てかこの強すぎる高域を10年放置する俺もどうかと思うけれど、、)

人間の自我なんてものは、しょっちゅう『自意識マター』盛業中じゃ疲れてしまうのでありまして、手抜きってか適当にやります的状態がデフォルトなワケです(『自意識マター』は現在の稼働状況よりも「いつでも呼び出せる状態」である事のが重要だったりする←PCのタスクマネージャで考えてください)。
すっかり脱力中に「まーこんなんでいいので後はよろしく」と風まかせで入手したなんとやらが某所の問題をあっさり解決することもあるって話。
■さてこの場合、
自意識バリバリの思考時には「調子に乗ってマルチアンプを」などと考えてしまったのであり、勿論それは(誰に誇示するものでもなく)「ひとり趣味的自己満足に浸ってみよう」という企画だったワケなんだが、3000円を超えて500円で解決するとは思わんかった、
自意識ダラダラ中の投げっぱなしな話だからこそ「ひとりよがりに調子こく」みたいな部分が削ぎ落ちたんでしょうな。

考えてみれば「強迫心理」なんてものは文字通り「やたら無理やりな方向に考え方を強要されている」ことなんで、そのまま反対にすれば「いかにダラダラ気楽に考えられる状態に持って行けるか」が解決の方向性となり(いい加減にやります的な)、この時『自意識マター』に求めすぎてもイカンって事です。
偶然の好循環展開も織り込んで考える場合、目先のストレス事項をとにかく脇へ避けるだとかいっそ処分してしまうって切り分けを同時進行させないと効率あがってこない。
心理学的に考えてみると「切迫感を拍子抜けさせる」って事だから「精神分析的ネタバレの徹底の重要性」って話だわね(ダラダラ気楽に考える部分にも影響を及ぼすだろうと)。


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posted by kagewari at 04:56 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月03日

「集団的自衛権の行使容認」というわかり難い文章

元からこれわかり難い話なんです。
日米安全保障条約自体「もう集団的安全保障の条約とどう違うのか」私にはわかりません。
日本の個別的自衛権の場合のみに「日米安全保障条約が発効される」という都合のいい安全保障条約があり得るのかさえ疑わしい。
だから60年代の『安保闘争』があったんでしょ?
左翼の人達の日和見主義ぶりというか原理原則無視のやり方は杜撰すぎるよ。
世論の大半が「日米安保条約賛成」となれば、日米安保破棄の論陣はナンセンスって事になり、誰も発言しなくなった(共産党ですら暫定的に容認するとか意味不明な発言になっており)、そもそも「日米安保条約の深化」だったかの協定が既に交わされており、役割分担やらなにやら(事実上自衛隊は米国の指揮権に組み込まれるだったり言うほど米軍は動きませんよだったり)事務方で話が先行している部分もあり、自衛隊に特殊部隊が設置され事実上情報部も存在する事はこれに対応するものでしょ。
ある意味安倍政権は言うほど突飛な事を想定しておらず、「大問題なのはやはり手続き問題」なのですよ(これバシバシ違憲だといって訴訟が起きるのだろうけれど)。
幾らなんでも時の内閣が公然と憲法解釈を宣言しちゃうのはマズイのであって、公明党は名目だけでも「憲法解釈の変更では無く、内閣法制局の判断として現実に対応可能なギリギリの運営を認めた」的なね、タテマエでもいいので憲法解釈の変更では無いってところを明快にべきだった。
(安倍政権も結果オーライならそれでも構わなかっただろうから)

実際に現在の『日米安保条約』は集団的安全保障条約の何物でも無いのであって、安倍政権の今回の行使容認とかってのも、日本の安全保障に関わるあたかも自衛権の範囲内での作戦行動において、それは「集団的安全保障だからダメよ」と言われそうな法整備を前進させるのが主な目的で、流石にASEANとNATOみたいなものを作ろうって野心は無いでしょ。
しかしこの「集団的安全保障の行使容認」が時の内閣でコロコロ変えていいって事になってしまうと、安倍政権にそのつもりが無くても(実際ベトナムやフィリピンや台湾の一部からは大きく期待する話もチラホラ出ている)、某右寄り政党が選挙公約で「我が党が政権を取ればベトナム・フィリピン・台湾とNATOのような集団的安全保障の組織立ち上げを実現します!」なんてできちゃうんだよね。
これやるとさ、選挙演説だけでもインパクト強すぎで、周辺から何言われるのかわからんワケだよ。
(そのニーズが本当にあるからさ、某党党首が衆議院選挙で演説ぶつだけで国際問題に発展しかねない。)
別に某党がそれを言うとか、政策勉強会でそんな話をしようが構わないのだけれどさ、
少なくとも「反日ネタで暴徒と化す可能性のある周辺国がある場合」の話だから、少なくともそういう話は外務省なり、防衛省なりが言わない限り表に出ない話にしとかんと、どこかの小政党の党首の思惑で日本の外交が右往左往するってめんどくさい事も起きてしまう。

実際安倍政権がそこにどういう歯止めをかけるのかって国会でやろうって話になるのだろうけれど、
ちょっとどうでしょう。もうその方向の話だと報道されちゃっている以上「次の選挙で言ってやろうか」なんて色気出す党首もいると思うんだな。
後から歯止めだなんだと言っても、報道によって既成事実化しちゃっているみたいな。
(なので公明党は少なくとも与党協議で「すっごく憲法解釈の変更は憲法論としてあり得ない事なので、憲法解釈の変更無しに自衛隊法の法整備のため『集団的安全保障の位置づけを詰めた』みたいな話にもっていくべきだった。」)

まーね、事後処理で「そうじゃないから」って事にしてもいんだけどさ(笑
そこは安倍政権の手腕に期待したい部分ではある。
話は戻るけど、
とにかく昨今の左翼はご都合主義が目に余るよ。
どこの報道だから忘れましたけど、日本以外の全ての国が持っている『集団的安全保障』を朝日新聞はどう考えているんだね。
朝日新聞は『集団的安全保障』を持っている日本以外の全ての国を「戦争狂だといつ非難したのかね」。そして、日本以外の全ての国が所有し行使している『集団的安全保障』をさ、何故日本に持たせると「キチ○イに刃物」みたいな話になるの?アサヒは「日本人をキチ○イだと定義しているのか?そんなアサヒも同じ日本人なんだが?」、いくらなんでもこれじゃ何も批判する権利は無いですよ。
ご都合主義が酷過ぎる。無責任が歩ているようなものだ。
(せめて『集団的安全保障の限定行使はOKだが憲法の解釈改憲みたいな事があり得るという見解だけは絶対ダメだ』みたいな記事にどうしてもっていけないのかな。←ほとんど似たような水準でアサヒは日米安保も容認しとるじゃないか。)
 ↑
と考えるとさ、
これ批判している左翼は完全に組織防衛的な「批判のための批判だよねこれ」、
あまりにもそれはご都合主義に過ぎる。

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posted by kagewari at 22:39 | Comment(1) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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