2013年06月24日

報復論の誤謬(ルサンチマン化リスクてかそれはトラウマ論か)

メンタル問題の現場で頻繁に遭遇する事象に「報復論的ナントカ」がある。
端的に言えば「被害認知を起点にやり返す欲求の肥大化」だ。
ちょっと話が長くなるかもしれないんだがおつきあいいただきましょうか、
まずもって、事の是非はともかく(確定的事実もともかく)、
動機形成の起点が『被(こうむる)』になっている時点で上記認知は「強迫的である」と定義される。勿論細かいこと言えば「反動形成」であるとか「安全保障上の正当防衛」だとか局面は様々だと思うが、詳細はこの件に関してはそれほど大事では無い。

話をわかりやすくする意味で、巧妙な詐欺にひっかかったであるとか「100%事実関係として当事者が”絶対被害者”である」前提で考えてみよう。
■言葉巧みになんとか詐欺にみごとにひっかかって身ぐるみはがされた。
この状況は4分6分なんか割合はともかく、かなりの人が「自己責任」も意識します。
■突然何の前後関係の経緯も無く暴力を振るわれて大けがした。
この状況は4分6分なんか割合はともかく、かなりの人が「自分で身を守る部分や警察による職業的公的治安責任」も意識します。
(実際の事件事例で加害者は勿論として同時に警察など公権力側を報復的に訴えるケースが頻繁なのもみさんご存じでしょう。)

思いませんか?「極端な報復感情に支配されない」ケースがかなりの割合に及んでます。
むしろ事象なり事件なりの理解はスッキリしており、次に起こす行動のターゲットや自らの行動・動機形成に迷うところもありません。「大問題は大問題だが、メンタル的固着のような状況には至っていない」。
「前提条件”絶対被害者”でも」ですよ。
(※ここはある意味「メンタル問題と”わかり難さ”の関係性」と同じ原則。)


報復ではなくて個人的『復讐』で考えてみよう。
■大事にしている何らかのものを不当に破壊なり殺戮された。
1警察なりに対処を求め裁判では検察に死刑を求める。
2「これは俺の手で」のように個人的決断で復讐を実行する(このケースは相手が特定されないとできないが)。
上記2例どちらも「強い復讐への動機、意識がある」事になりますが、「報復感情に支配される」ような状況には至りません。
犯人なりの殺害が目的化しており、こうなると起点となる被害は(犯人を殺害するという目的の条件として)与件化され、表現としてはアレですが後に尾を引くことは無い。
(大事にしているものの破壊や殺戮によるロスに起因する鬱状態などは別の論議。)

『絶対被害認定』のうな”わかりやすい事例”(表現は不謹慎ですが「わかりやすい酷い被害事実」)であればあるほど、所謂メンタル的な「報復感情に支配される」ようなストレスにはなり難い。
(特に『復讐論』で言えば、復讐の決断によりこれは解決するというか、覆される。←この判断が確信犯的であればあるほど「復讐のスケール」というのものが具体的に検討されるので、更に不謹慎な発言ですが「それなりの具体的損失の評価」が自主的に行われるのも事実。復讐論の1においては検察の求刑に「死刑以上が無い」部分は合理化されそれ以上の過剰ストレス化しない。逆に言うと「復讐の物理的スケールに見境が無い場合」それは100%別のメンタル問題の介在が想定されるべきである。)

■ちょうど前述の括弧書きのところに被るんだが、
場合によると「ルサンチマン」とも呼ばれる「報復感情に支配される」ような状態。
これは何だろうか?
勿論冒頭説明にあるようにそこに「強迫心理」などが関係しているのは言うまでも無いが、
決定的な論理矛盾があるところが案外スルーされているのじゃないかと考える。

事の発端はどの場合でも(反射速度的に)「被害認知に始まる」ので、どうしたって『被(こうむる)』乃至は「強迫的」状況に至る。
このストレス信号へいかに『自意識マター』が直面し状況を考えるか。
そこでメンタル問題の行先は決まる。
「強迫心理的な突き上げ(エスからのなんとか)」に抗いきれず押し切られてしまえば、認知は現実から乖離してしまう。
一見脳内では事実関係を事実関係として認知していつもりなんだけれど、「どうしてもおさまらない、我慢ならない」のような状況に収拾がつかなくなってしまう。
構造は簡単で「無意識なので詳細を自意識が認知できていないだけで、無意識下では「強迫性」の原則によって(不安をバランスさせるために見込で過剰にバランスさせようとする原則)現実とは乖離した被害認知が行われており(無意識下なので過去用例の被害実例ファイルと連想化される)、そのスケールが既に現実認知から乖離してしまっているので『自意識』にとって手にを得ない状況が派生している」と考える事ができる。
▲この顕著な例は「歴史問題戦争関連」で某国なりのメンタルなり共同幻想が収拾つかないみたいな事例で、特にそっち方向で極端な報復欲求的暴走に至るのは「そもそも戦争など行ったこともなければ、当時産まれてもいない層」だったりする。
(※ここは日本における戦中派右翼とネトウヨの乖離も同じ)
そもそも当事者ですら無いんだから。
上記の国際間の問題の背景は当事者国の『共同幻想(そもそも組成は強迫的)』がキーとなって話がややこやしくなるので個人間の問題とは関係ないように”見える”んだが、
果たしてそうだろうか?

ここは「トラウマ論における問題」にも多分に関係しているように思う。
『共同幻想』の有事とかではなく”平時”の非積極的な日常論的幻想(論理構造)が関係してないか?
「普通なら○○していて○○な日常がある筈だったのに」
(特にトラウマ論には上記認知関係しているように思う)
『絶対被害者認定』の場合どうだろう?詐欺の場合なら「儲け話という非日常」が関係し、いきなりの暴力行為の被害でも「状況そのものが非日常」である。そこに『共同幻想』があてこまれる状況は無い。判断であるとか対応は”独断”に任されているというか『自意識マター』を突きつけられているとさえ言える。
(PTSDの最初の事例は戦争後遺症だが、軍=最強の『共同幻想』であることを忘れてはいけないだろう。)
しかしだ、
「普通なら○○していて○○な日常がある筈だったのに」
この『保障された既得権益感』、
(本来は「儲け話」と同じなんだがこれを『共同幻想』があたかも適応者の既得権益のように喧伝するので「儲け話」的非日常性を認知できない→てか『共同幻想』はそれをあたかも既得権的日常として保障されてますよ詐欺をやってんだけども)
即ち『共同幻想』は認知そのものが『自意識マター』に対して抑圧的であり(勿論強迫的で)、漠然と抽象的な反動なりを助長し兼ねない仕組みである。
この辺(詐欺性含めて)『共同幻想』の構造そのものにこの問題が織り込まれないのは当たり前で、『共同幻想』というのは”想定内の常識論”を規定し半ば設定のように強迫するもので、非日常は=『共同幻想』的場面では無い(極論するとプライベートな問題には『共同幻想』は責任取りませんみたいな)。
 ↑
※ここに二重に皮肉な構造が被っているのわかりますかね。
(既得権で常識であると保証した事項が破綻しても『共同幻想』は「あっそれ非日常だから」と言えば、責任取らなくてもいい形になっている。←ところがその破綻した日常感は『共同幻想』の影響で各個人無意識領域などで肥大すんだな。←同時にこの肥大を『共同幻想』はその導入ルートでインストーラー的に利用している。)

とにかく話複雑なのでアレなんだけど話戻すとだ、
この状況に至る心理的問題化へのポイントがどこにあるのかといえば、
→続きを読む

posted by kagewari at 18:58 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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