2013年06月29日

『芸術家心理』

基本的に『芸術家』は『単独者』であり、
その技能が芸術を超えている『職人』は『共同幻想』適応人格である。

『芸術家』と『職人』の違いは、
前者が「破壊と創造」がその特性であるのに対して後者は「性格な再現と忠実な保守を善」とする職責を誇る。
平たく言えば前者は『抗(あらがう)』形式で現実に反抗しており、
後者は伝統や歴史というものを権威として認め自らもその一部を構成する帰属(アイデェンティファイ)そのものを善や徳のような道徳性として”自ら選択”する。←端的に言えば『共同幻想』に対するアイデェンティファイがアイデェンティティーになる。

後者を補足すると、欧米の場合一神教的ビヘイビアがあるためそアイデェンティファイは更に上部構造の教会権威に(神と1対1的に)帰属するため、世俗や仕事上の帰属は一段下になるので見掛け上個人主義が成立しているように見えるんだが、あくまでこれは帰属構造上の特徴であって内容は同じだ。
※更に補足すれば「欧米における『共同幻想』適応を日本的に解釈すれば」その神の概念は親子関係に被っている訳だから、欧米の『共同幻想』適応人格は社会心理的に言えば日本よりエディプス的であると見ても間違いでは無い。
 ↑↓
日本が仕事優先で「親の死に目に会えない」事をある種の『共同幻想』的美徳としていたり、サラリーマンにおいてあっさり単身赴任を受諾する事を社会責任として正しいと判断する点なんかは欧米的には考えらえない事だし(彼らの「日曜日に家族で」の元ネタは「安息日は家父長(下士官)が引率し家族で教会へ」である)、あたかも日本人は組織論や集団への過度に従属的だなどと欧米から見当違いの批判をされる事も珍しくないが、彼らの帰属性は二重構造になっている。
彼らの自我に認識されている内容(家族を仕事や会社より重視)とは別にその深層心理には教会権威のフラグが後ろ盾になっており”見掛け上”各自我が仕事や会社組織に堂々と対峙しているように見えるだけで宗教的観念にはその反対に従順だったり、或いはその反対で「反動形成」込みでエキセントリックな反発を持っていたりする。
(※日本はその反面、岸田教授的に言えば「帰属組織にそのまま神様じゃなく『世間様』がそのまま被っているだけ」で、『共同幻想』適応の構図が欧米から見れば「日本人は緩い戒律の多元的宗教の聖職者」のような”二重”では無く”多重”構造になっているだけ。)

話は戻るけれども、
日本で言えば『職人』は家族であるとか自らの人生すら帰属する共同幻想権威の下部構造に過ぎないので、「仕事に殉ずる」的な振る舞いをその道徳として自我を拘束する道を”自ら”選択するのだが、
結果的にそれは「反芸術」的振る舞いでもある。
「冗談じゃねーよ、大工何年やってんだ○○ってものはな〜こうしてこうしてこうやんだよ」
(前回の話における「普通○○はこうだろう」文法と同じ)
あたかもその技法や伝統の継承は欧米で言えば宗教的戒律も同様って事になる。
(日本の『共同幻想』は”多重”構造で「緩くてなんでもあり宗教の聖職者」みたいな帰属の仕方をするから。←欧米人に比べて日本人がおとなしいだとか極端にマナーがいいとか言われる人格構造の理由。)

■ご存じのとおり上記の典型的『共同幻想』適応モデルの全盛期は昭和であり、平成以降その根底はガタガタと揺らいでいる。
「グローバル時代の『共同幻想』」←こんなもん成立する筈がないからね。
仕事が命の職人に「育児休暇取って家帰れ」とかねww
言葉として論理矛盾してしまうわけだから。

簡単に考えれば『芸術家』はその反対みたいなものなので、
『職人』から見れば天敵とまで言わないが「一歩間違えれば「異教徒」そのもの」である。
(※これ建築なんかにおける前衛建築家意匠デザイナーと職人さんの対立関係で想像するとわかりやすい。)

■しかし『単独者』=芸術家では無い。
基本的に『単独者』単体の特性は”組織って何?的感覚の自由人”みたいな概念なので(まーそのまんまリベラル主義者というか)、『共同幻想』特有の思考リミッター(『共同幻想』固有の『自意識抑圧』)が無いので、お笑い的なアイデアだとか馬鹿馬鹿しいことなど『共同幻想』から見れば破綻にも見える現実を知覚・認識する特徴はあるが、芸術的な表現を求めるモチベーションなんてものには関係が無い。
では同じ『単独者』から芸術家はどうして派生するのか?

心理学的に言えば芸術家は「歩留り的選択者」と言えるもので、『共同幻想』系メンタル問題でたとえるなら、たとえばだけれど「鬱的傾向」の一部を自らの個性として受容する事を歩留り的に選択する状況なんかと似ている。
(この歩留り選択ってのは『自意識マター』による自立的選択なので選択そのものに対する強迫性が無いので「鬱も俺の個性」として何ら問題が無いというか、本人がそれでいいのであれば無意識下で悪循環化するようなことは無い。←哲学的には性悪説的選択とでも言えばいいか。→「偽を知る偽者は中途半端な本物気取りよりよっぽど本物だ」)

■『歩留り的な単独者』って何?って話になると思うのだけれど、
芸術ってのは当人が”美”だとか”芸術”だとかまー所謂そういう神聖なナントカを個人の自我を超える上位概念として認めるとこないと始まらないんで、この段階で歩留り的なんだわね(上位概念を持っているんだから)。
そして芸術家の道を選んだとこから「構造的イバラの道」を歩む事になる。
 ↑
えーとね最初にネタバレしてしまうけれど、
これが『昇華』って現象。
職人のところで記載した「聖職者的『伝統保守』意識」とかも『昇華』。
(所謂確信犯的選択における『共同幻想』の”選択”のとこに合理主義を超える”歩留り的”な上位概念を置くとこうなる。だから「天職」なんて言語になるワケ。)

わかり難いでしょうかね、
『単独者』の歩留りは「共同幻想的な上位概念」だし、
『共同幻想』の歩留りは「単独者的な権威の勝手な自己選択」となるから。
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posted by kagewari at 20:00 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月24日

報復論の誤謬(ルサンチマン化リスクてかそれはトラウマ論か)

メンタル問題の現場で頻繁に遭遇する事象に「報復論的ナントカ」がある。
端的に言えば「被害認知を起点にやり返す欲求の肥大化」だ。
ちょっと話が長くなるかもしれないんだがおつきあいいただきましょうか、
まずもって、事の是非はともかく(確定的事実もともかく)、
動機形成の起点が『被(こうむる)』になっている時点で上記認知は「強迫的である」と定義される。勿論細かいこと言えば「反動形成」であるとか「安全保障上の正当防衛」だとか局面は様々だと思うが、詳細はこの件に関してはそれほど大事では無い。

話をわかりやすくする意味で、巧妙な詐欺にひっかかったであるとか「100%事実関係として当事者が”絶対被害者”である」前提で考えてみよう。
■言葉巧みになんとか詐欺にみごとにひっかかって身ぐるみはがされた。
この状況は4分6分なんか割合はともかく、かなりの人が「自己責任」も意識します。
■突然何の前後関係の経緯も無く暴力を振るわれて大けがした。
この状況は4分6分なんか割合はともかく、かなりの人が「自分で身を守る部分や警察による職業的公的治安責任」も意識します。
(実際の事件事例で加害者は勿論として同時に警察など公権力側を報復的に訴えるケースが頻繁なのもみさんご存じでしょう。)

思いませんか?「極端な報復感情に支配されない」ケースがかなりの割合に及んでます。
むしろ事象なり事件なりの理解はスッキリしており、次に起こす行動のターゲットや自らの行動・動機形成に迷うところもありません。「大問題は大問題だが、メンタル的固着のような状況には至っていない」。
「前提条件”絶対被害者”でも」ですよ。
(※ここはある意味「メンタル問題と”わかり難さ”の関係性」と同じ原則。)


報復ではなくて個人的『復讐』で考えてみよう。
■大事にしている何らかのものを不当に破壊なり殺戮された。
1警察なりに対処を求め裁判では検察に死刑を求める。
2「これは俺の手で」のように個人的決断で復讐を実行する(このケースは相手が特定されないとできないが)。
上記2例どちらも「強い復讐への動機、意識がある」事になりますが、「報復感情に支配される」ような状況には至りません。
犯人なりの殺害が目的化しており、こうなると起点となる被害は(犯人を殺害するという目的の条件として)与件化され、表現としてはアレですが後に尾を引くことは無い。
(大事にしているものの破壊や殺戮によるロスに起因する鬱状態などは別の論議。)

『絶対被害認定』のうな”わかりやすい事例”(表現は不謹慎ですが「わかりやすい酷い被害事実」)であればあるほど、所謂メンタル的な「報復感情に支配される」ようなストレスにはなり難い。
(特に『復讐論』で言えば、復讐の決断によりこれは解決するというか、覆される。←この判断が確信犯的であればあるほど「復讐のスケール」というのものが具体的に検討されるので、更に不謹慎な発言ですが「それなりの具体的損失の評価」が自主的に行われるのも事実。復讐論の1においては検察の求刑に「死刑以上が無い」部分は合理化されそれ以上の過剰ストレス化しない。逆に言うと「復讐の物理的スケールに見境が無い場合」それは100%別のメンタル問題の介在が想定されるべきである。)

■ちょうど前述の括弧書きのところに被るんだが、
場合によると「ルサンチマン」とも呼ばれる「報復感情に支配される」ような状態。
これは何だろうか?
勿論冒頭説明にあるようにそこに「強迫心理」などが関係しているのは言うまでも無いが、
決定的な論理矛盾があるところが案外スルーされているのじゃないかと考える。

事の発端はどの場合でも(反射速度的に)「被害認知に始まる」ので、どうしたって『被(こうむる)』乃至は「強迫的」状況に至る。
このストレス信号へいかに『自意識マター』が直面し状況を考えるか。
そこでメンタル問題の行先は決まる。
「強迫心理的な突き上げ(エスからのなんとか)」に抗いきれず押し切られてしまえば、認知は現実から乖離してしまう。
一見脳内では事実関係を事実関係として認知していつもりなんだけれど、「どうしてもおさまらない、我慢ならない」のような状況に収拾がつかなくなってしまう。
構造は簡単で「無意識なので詳細を自意識が認知できていないだけで、無意識下では「強迫性」の原則によって(不安をバランスさせるために見込で過剰にバランスさせようとする原則)現実とは乖離した被害認知が行われており(無意識下なので過去用例の被害実例ファイルと連想化される)、そのスケールが既に現実認知から乖離してしまっているので『自意識』にとって手にを得ない状況が派生している」と考える事ができる。
▲この顕著な例は「歴史問題戦争関連」で某国なりのメンタルなり共同幻想が収拾つかないみたいな事例で、特にそっち方向で極端な報復欲求的暴走に至るのは「そもそも戦争など行ったこともなければ、当時産まれてもいない層」だったりする。
(※ここは日本における戦中派右翼とネトウヨの乖離も同じ)
そもそも当事者ですら無いんだから。
上記の国際間の問題の背景は当事者国の『共同幻想(そもそも組成は強迫的)』がキーとなって話がややこやしくなるので個人間の問題とは関係ないように”見える”んだが、
果たしてそうだろうか?

ここは「トラウマ論における問題」にも多分に関係しているように思う。
『共同幻想』の有事とかではなく”平時”の非積極的な日常論的幻想(論理構造)が関係してないか?
「普通なら○○していて○○な日常がある筈だったのに」
(特にトラウマ論には上記認知関係しているように思う)
『絶対被害者認定』の場合どうだろう?詐欺の場合なら「儲け話という非日常」が関係し、いきなりの暴力行為の被害でも「状況そのものが非日常」である。そこに『共同幻想』があてこまれる状況は無い。判断であるとか対応は”独断”に任されているというか『自意識マター』を突きつけられているとさえ言える。
(PTSDの最初の事例は戦争後遺症だが、軍=最強の『共同幻想』であることを忘れてはいけないだろう。)
しかしだ、
「普通なら○○していて○○な日常がある筈だったのに」
この『保障された既得権益感』、
(本来は「儲け話」と同じなんだがこれを『共同幻想』があたかも適応者の既得権益のように喧伝するので「儲け話」的非日常性を認知できない→てか『共同幻想』はそれをあたかも既得権的日常として保障されてますよ詐欺をやってんだけども)
即ち『共同幻想』は認知そのものが『自意識マター』に対して抑圧的であり(勿論強迫的で)、漠然と抽象的な反動なりを助長し兼ねない仕組みである。
この辺(詐欺性含めて)『共同幻想』の構造そのものにこの問題が織り込まれないのは当たり前で、『共同幻想』というのは”想定内の常識論”を規定し半ば設定のように強迫するもので、非日常は=『共同幻想』的場面では無い(極論するとプライベートな問題には『共同幻想』は責任取りませんみたいな)。
 ↑
※ここに二重に皮肉な構造が被っているのわかりますかね。
(既得権で常識であると保証した事項が破綻しても『共同幻想』は「あっそれ非日常だから」と言えば、責任取らなくてもいい形になっている。←ところがその破綻した日常感は『共同幻想』の影響で各個人無意識領域などで肥大すんだな。←同時にこの肥大を『共同幻想』はその導入ルートでインストーラー的に利用している。)

とにかく話複雑なのでアレなんだけど話戻すとだ、
この状況に至る心理的問題化へのポイントがどこにあるのかといえば、
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posted by kagewari at 18:58 | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月20日

心理学のタブーに無謀にもナントカ

いやぁ実は○○だったもんで○○を探して昭和のあれれな○○○問題作(意味わかんねー的評価の)を観たんですが(何がなんだか説明もわかんねーよ!)、
デビルマンが当時の漫画論壇に多大な影響与えた部分と似たものに思うんですが、当時の漫画家さんは現在では考えられないぐらい純文学顔負けに哲学的テーマをエンタメに取り込もうと相当無謀な創作意欲に溢れていたんです。なるほどそういう時代の原作レスペクトって趣旨のアレなのかと(後からわかったんですが)。

フロイド心理学により哲学やら宗教学系の分野は想像超える影響受けておりまして、
中には心理学のとこからユングみたいなオカルト系まで台頭しちゃった時代でもあるのですが、流石にね『神の概念』の話に及ぶと「こりゃマズイだろう」なとこあるんですよ。
言うまでも無くですが、
(心理学系の人間も寸止めしとけよみたいな、)
え?もう結論を書いちゃっているだろう、もうヤバいとこ踏み込んでるだろ?
お気づきの方もいらっしゃるかもですが、
『○の概念』つったらもう「概念」ですから、脳内の話になります。
ロジカルなものって事です。
いえいえ、私は決して神は死んだみたいな話は一切しておりませんので勘違いしませんように(笑
私は「概念」について心理学的に考えてみようって思っているだけです。

■フロイドに関してはとん挫したというか最初から若干無理のあった「死の衝動」関連含めて実験的にテーブルに乗せた”着想段階”とも言える要素があったので、その後岸田の『共同幻想論』であるとか欧米においては破門同然のオカルトユングの『普遍的集合無意識マンダラ論』などなどそこを引き継いだり補完したりする形でその後の心理学は進むのですが、
そこは各人の理解しやすい方向でいんだろうぐらいに俺は思っていて、岸田の『性的唯幻論』における『共同幻想論』であるとか、「フロイト力動論は経済学で考えるとわかりやすい」だとか「死の衝動では無くて(実は等価か?)後期先進国がどうあっても不老不死の概念を希求するに至る」などなど説明の方法論を補完していたり心理学のビヘイビアとなる社会学的に社会構造が当時と違ってくる部分にパッチを当てているだけで、基本はフロイド心理学から何かが変化している訳では無い。

さて話は『概念』に戻りますが、
昔はかなり「ドグマ論」的方向性重要視してきたんですが、この「ドグマ論」は『共同幻想とはなんぞや』の方向の話でありまして、
話を「神の概念」であるとか「強迫心理」などに振っていくと、同じ概念でもドグマってか「CMのキャッチコピーやスローガンやプロパガンダのような短文構造の”何”」に行き当たる。
ロジック的には「○○は○○の○○である(或いは○○だからだ)」のような比較的ザックリとしたロジックですわね。
こうなってくる理由は簡単で、あれこれ権力者であるとか”言いだしっぺ”の思惑とこれを受ける集団心理の(尾ひれはひれが付くような)派生が過分に影響する『共同幻想』と違って、
「神の概念」であるとか「強迫心理」ってのはそのまま「個人の脳内だけのもの」なので(全部自覚的にロジックを語ってたらそれは『自意識マター』になっちゃうから)、
▲「極めて反射的乃至直感的速度(=無意識)に、出来上がってしまうようなもの」という特徴を持ちます。
全部が全部自覚が無いって事はないのだが(メガネの端に薄々見えているとかはあるでしょう)、この現象の流れを考えれば、構造論として無意識的になる仕組みが簡単にわかります。

力動論じゃないけれども、
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posted by kagewari at 20:22 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月12日

最近では聞かなくなった「天使と悪魔がいて」話

自然に考えれば「こころの中に天使と悪魔がいて葛藤を」なーんて話をバラかせば、
”昭和”の場合、それは天使が『共同幻想』で悪魔視されているのがこれに抗(あらがう)『自意識』って図式なんでしょう。
(心理学的に言えば『超自我』と『自我』そしてバックグラウンドに『エス』)
現代もその傾向続いてますが、『共同幻想』は道徳や常識を司る権威の総称でもあるんで、自動的にこれに抗(あらがう)者は悪魔になっている寸法で、
一種のレトリックによって、この脳内葛藤を図式化すると「悪魔だからな〜」みたいな枷が発生して、なんだか『共同幻想』に抗(あらがう)『自意識』は悪者みたいな話になって表現されたり、想像されたりしたってオチです。

これは「エゴイズム」に対するレッテル公式と同じもので、
(前段の構造的に「あれれ、だったら『自意識』は悪魔か」論法の式)
『共同幻想』一般用語では「エゴイズム」って利己主義だとかニュアンス的に我儘みたいなね、そういう語彙になってちゃってますが(笑、
まーここは説明するまでも無いわな、
しかしこのレトリックはバカにならないもので、古く言えばフロイドの「性欲的力動論」への権威社会からのしっぺ返しというか猛烈な反発ってのは似たところあるんだわね。
(『共同幻想』としては「ネタバレしてどうする」ってことでしょう)
宗教哲学ですら「公共性認知やら利他主義言ってもそれをよしとする判断は個々人でやっていて、それが美徳という名の”徳=得”なんだから厳密な利他主義なんてものは悟りを開いた(←これ心理学的にあり得ない仮説なんだが)自己と他者との区別すら喪失したワイズマンが判断して始め有効」って事であり(それ以外は「オマエラ黙って教義に従っていればいい」的な)、
基本は「迷える子羊(全員エゴイスト)」って認識なワケですよ。

うんで、文明化の果てに学問やら高学歴(=就労年次の減少)やらで(これは前世期なら出家して高い徳の学問やった級って意味になる)、「言われた通りにしていればいい的な概念パッケージ」をインストールするのでは無くって、
個人が自立的に考え「俺は自分の美意識なりでこう思う(勿論伝統保守的道徳であってもいい)」というような感じで「自覚的(確信犯的)認知」が社会に進み→『民主主義』なるものの根拠となる。
『民主主義』は仮想上「プライベートな時間においては『単独者』でいてねヨロシク」のような随分都合のいい想定で成り立っているんだが、

以上これらのレッテル公式的な表現の世界ってのは各所で矛盾しておりまして、
(だから近代以降政治の舞台はトルコのデモじゃないけれど世俗主義的に「政教分離」したんだからさ、)
■ここはこうだけどここはこう的な「切り分け」や「使い分け」的ご都合主義で成り立ってきたに過ぎない。
社会学手的に乱暴な表現すると、
民主主義政治において頻繁に語られる「民主主義においてはその国民の民度に応じた政府しか選べない」なんてーのはさ「プライベートな時間における『単独者』覚醒率に応じて民度は決まる」と言っているのと同じなワケだが、
(保守派的には怒るとこだと思うね、)
『共同幻想』にガチに適応なり依存なり宗教的心酔しちゃっている人格の場合「はたして風呂とトイレの中では”悪魔”でいられるか?」という命題になっちゃうんだね。
ある意味さ、そこまで開放的というか(風呂とトイレで)ぶっちゃけられる人って、それなりに心のどこかに『単独者的自我』を保持(当面適応している『共同幻想』下位フォルダだが)する、言うならば二面性を「切り分け」「使い分け」で運用している人格になるので、状況が変われば『単独者』としてカミングアウトする潜在層って意味になる。
(エジプトのジャスミン革命じゃないが、)

更に心理学的に言えば、
抑圧された『自意識』の残骸なりがエスをひとつの概念として「強迫心理」なるものに複合化且つ固体化みたいなさ「概念化されたエス」とでも言うべき「強迫心理」という現象があるわけで、
「天使と悪魔話の由来」には、昭和なりには明確に認知されていなかった「強迫心理」も『自意識関連』で認知されていたって背景もあんでしょう。

時代変遷で言えば、
近代は『共同幻想』と『自我』の相克であり、
現代はさしずめ『(道徳哲学なりも高学歴で織り込んだ)自我』と『強迫心理』の相克って事だわな。(『自我』で考える場合には『自意識』の選択を『単独者』『共同幻想適応』など分類する必要は無い。『自我』のが上位概念だから。)

誰にだってあるワケですよ「強迫心理」。
見分け方はある意味実に簡単で、
「え、本当にそうか?(それが何の目的で自分の私利私欲になるん?)」
この疑問で、「えーっと本当かと聞かれると、あれれれれ?」になれば全部「強迫心理」だわね。
「じゃーそのアイデアなり企画なり方針はどこからきたの?」
この疑問で、脳内に無いモノが出てくるワケネーんだからさ、自動的に「潜在意識にそういう設定なりこうなればこうなる的パッケージとしての概念がある」つーのが証明される。
しかも『自意識』口ぽっかんな知らないとこで、
(※これは動機形成論における反動形成認知の発生なんかも同じで、反射的な対称性認知みたいなね、不安ってのは”不安定”であり、対称性っーのは”天秤を水平に”のような反対の概念が自動的に台頭してナントカするみたいな着想的認知のこと。)

■そこいら辺を考えるときに「いいこと聞いたわ」なネタがありまして(笑
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posted by kagewari at 19:46 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月07日

『経済学と心理学』

ちょうどこの前「動機形成」のナントカを少し書いたのだが、ここんとこと「貧乏だと買い物が楽しい」みたいな話には相関性があるので、ちょっと話を進めてみたい。

経済学においては(てか社会経済学とでも言えばいいのかな)、「先進国化でモノが溢れると総需要が落ち込む」って案外やっかいな問題がある。
(これが理由で先進国になればなるほど成長政策を打っても土地バブルだとか金融市場に金が流れるだとかなんだかんだで住宅政策で無理やり市民に分譲マンション買わせてとかの現象が起きる。)
逆に日本で言えば高度経済成長期その総需要に困る事は無かった、その代表が白物家電だ。
つもるところそれ以前は「不便だった」ので、これを文明化で「どうすっかな〜この手がありますが」のようなハマリ方すると爆発的な需要になる。
ここを以前広告業界は「不安や深いを煽るマーケティング」みたいに利用した時期もあったぐらいで(まーその典型が保険会社のCMですな)、
所得分布的に勿論低所得階層が可処分所得の絶対量が少ないのは事実なんだけれども、その可処分所得で高い消費性向があるってのはだね、不足感だけでは無いのじゃないかと考える訳さ。
(もっとも効果的な調味料が”空腹だ”みたいな関係の派生だわね、)

経済学で言えば潜在需要っての?
ここを俺は心理学的に「人はなんだかんだで先進国化の果てに不老不死欲求に行きつく」と考えているんだけれども(それこそ潜在需要としてね)、
■動機形成が案外力技であるのと同様、潜在需要の製作的喚起なんてのも(言えば不安煽りの一面もあるのだから)「似たような概念なのでめんどくさいものだったりする」と考える事ができる。
営業さんはみんな大変なワケでだね、
社会現象で言えば「戦火の中でこそ平和は希求されるが、平和ボケ始まると右傾化だのきな臭い話もポンポン出てくる」という都合のいい連中こそが人類なのでありまして、
まーそんな話はともかく、

不便な不都合や心理的に簡略化すれば「不快」ってのは「動機形成の発端」となるので(動機形成を単体でエイヤとやるのは力技的にけっこうしんどいものなので)こういう表現はどうかと思うが「不快ってのは案外必要条件だ」と定義して間違いでは無い。
 ↑
それを「需要」と見るのか「それだけで一個の完結した”業”に集約しちゃうのか」この差異だよね。
前者は「現実」だか後者は「ルサンチマン」である。
経企庁的には「ルサンチマンはねーだろーよ」ってなる構造。

話わかり難いかね?
たとえ話にすればだ、
「お隣さん洗濯機買ったのよ〜、あらいいわねぇ」というお題に対して、
1「負けちゃられないわね家も洗濯機買いましょ。明日からお父さんのタバコ代半分だから。」
2「このタライ洗いで洗濯機を超える可能性を追求できるのではないか?」
3「洗濯機持っている奴を恨む妬む」
1が「需要化」で、2が「オルタナ」で、3が「ルサンチマン」

戦争で言えばば、
「○国の侵略は凄惨を極め、X国国民は非戦闘員を含めて女子供に関わらず殺戮された」というお題に対して、
1「命をかけても恒久平和を目指してこの戦いを終結させる」
2「この話の発端は○国の内情における○○問題であり、ここを潰せば全てが逆さまにさえなるのではないだろうか」
3「何世代も恨む、○国の事は200年後も許さない」
1が「需要化」で、2が「オルタナ」で、3が「ルサンチマン」
(まーね経企庁的には「ゲっオルタナ系」でもあるだろうね、)

心理学でこれ補足すると、
1「反動形成(アクティブ)」、2「昇華(斜め上)」、3「内向性ナルチシズム(パッシブ)」
(まとめ方的にはかなり乱暴なんだが意味が通じればいいだろ、)
経済学的に解釈すれば「反動形成」なんてさ「経済成長における乗数理論みたいなもん」ですよ。


■経済政策的に俺は再三「ベーシックインカムが切り札」と発言してきたんだが、
なんつーかその背景にはですね、
カウンター表現込みで言えば「政策的貧乏化誘導」みたいなとこもあるのじゃないかと思い始めている。いやね、国民総所得の方で言えば「貧乏化」なんてのはナンセンスなのであくまでも「心理的側面」なこれ。
何時誰でも仕事を辞めてもいい状況を恒久化するのは確かにギャンブルには違いないのだがー
想定として「いくら口酸っぱく政府が行政指導しても有給休暇の消化を余らせる」「誰か育児休暇とかとった人いますかー」な背景に似たものを感じるんですよ。
(その癖「政策的GWの拡大」のようにマジ赤日にすると全員笑顔で休みやがる、「だから『共同幻想』って奴は、、」なんだが。)

ベーシックインカムってのはさ、「自主的な需要を”何ですか”と突きつける」要素があるのじゃないかと思うワケさ。
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タグ:共同幻想
posted by kagewari at 17:17 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月02日

政治の話は暫く静観なんですけども

いくつかトピックもありました。
中にはいかにも心理学的な『共同幻想特有の誤謬(認知障害ゆえのナチュボーン陰謀みたいな)』事件がありましたから、社会心理上なかなかテーマとしても面白いので「政治経済心理ネタ」的に取り上げてみましょう。

まずすっかりメディアに露出することも無くなった小沢氏の動向ですが、
元気に参議院選挙の準備を進めており、かねてから「この人だろう」と思っていた森ゆうこ議員を事実上の後継指名しました。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=jiDKWfDmPEc
(ほんと小沢氏は個人的権力欲が全く無いというか、、、自分の事すら民主主義囲碁における”自分の意思で動く駒”ぐらいにしか思っていないのでしょう。難しいのは後継指名と言っても森議員が参議院議員であることですね〜、国会における衆議院と参議院の立ち位置は皆さんご存知のとおりで政権奪取の正面である所属政党衆議院議員のリーダーである必要がある。)
動画を見れば、リップサービスの域を出ないと考える人もいるでしょうけど、小沢氏はそういう人物では無いですよ(ここも野村監督に似ていると思う)。てか今の生活党に他に人材いなから(笑

小さいところだと、鈴木氏の北海道党である大地が(裁判中の元小沢氏秘書)石川議員を辞職させました。なんだか内輪の理由らしく「石川氏の先日の当選は比例票当選なので」仮に裁判の結果いかんで公民権停止による失職とかあると大地の比例票の意思と違うんじゃないかみたいな話が”支持者の側から”あったらしく、石川氏の辞職により鈴木氏の娘が繰り上げ当選となるなど随分批判もあるようです。
この辺の内情は外野席にはよくわからんですね、
(鳩山氏の立候補断念事件のように北海道選挙区特有の事情もあるんでしょう、)
小沢氏は自分の元秘書を子飼いの議員のように当選させるような考えが全く無いらしく(石川氏が秘書を辞めて立候補を考えた時にも反対したらしい)、小沢事務所的にはなんでも自分の意思で自立的に決める事を優先するため、自らの意思で独立みたいな経緯で石川氏が議員になっている関係上、石川氏のその後に小沢氏の後ろ盾が全く無い状態なので(笑、
なんとも石川氏個人が悪戦苦闘する様が目立つ形になりますが、これは石川氏にも望ましい環境でしょう。弁護人なんかも自分で選んでますし、
(議員辞職も自分一人で決めたみたいですし)なんだかんだ「小沢氏への検察の謀略事件」における主役級の立ち位置も変わる事ありません(実際に録音テープで彼大活躍でしたからね)。
彼自らの意思が事に関わるから小沢氏の動向と別の話として、「まだまだ事件は続く」引っ張る仕事は石川氏マターで進むのでしょう。

ま、そんな事はともかく
今回のメインテーマはこちら
■緊縮財政派の論拠のひとつだった『ラインハート=ロゴフ論文』がインチキだった件です
緊縮財政の時代は終焉を迎えるのか?ラインハート=ロゴフ論文事件の教訓(上)
http://astand.asahi.com/magazine/wrbusiness/2013042300002.html
事件のあらましはわりとどうでもいいことでありまして、
発端の経緯からダメダメで(なんだか同論文を取り上げることになった大学院生が数字がおかしいことに気が付いたみたいな)、おかしいじゃないの的指摘を受けた当人達が「エクセルの使い方を間違った」みたいなこれまたずさんな言い訳をしたらしいって、おーもーな話なんであります。

この論文根拠に世界の名だたる緊縮財政派の政治家やら経済学者があーだこーだとギリシャはじめ財政赤字の国を相手にぎゅうぎゅうやってたってのに「エクセルの使い方間違えました」とかね(笑
(思うに緊縮財政系の人って「財政均衡ありき」などっか宗教じみたところあるので、都合の悪い数字が見えない病気にでもなってたんでしょう。)
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posted by kagewari at 00:25 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


『住まいの心理学』
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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照

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