2013年04月22日

『抗(あらがう)』と『リアリズム』

リアリティーだと「リアル”らしさ”の方では無くリアルを追求するべく姿勢の方」など注釈つけてもまだ誤解の元なので(この辺言葉が元々アバウトなのでほんとにめんどくさい)、表題的には『リアリズム』としたが殊更”ナントカ主義”のような話をしよってのではありません。
前回を引き継いで、現代社会における自我の実存の”認知”を考えとる訳です。
ここが認知できないと自我は『主体の無いシミュレーション』のような代物になってしまいます。
(そこで主体性やら自立性やらあり得ないわけで、構造的に自我は何らかの”権威”なりに従属でもしないと存在の確認すらできなくなるっちゅう訳です。)
若干「主語の無い言葉」だとかにも被るかなと思います。

前回の話でそもそも人間に限らず生物ってものが認知しているのは「そのままのリアル」ではなく、脳内に展開されたバーチャルな現実である事を説明してきましたが、
時代的に岸田教授登場云々の頃にはそのバーチャルなものを統合する仮想権威として『共同幻想』が云々され(動物で言えばここが普遍的本能のような行動原理により統合されている)、そこんところの社会性は時代の変遷で『単独者』的な概念に置き換わり、現代社会では『共同幻想』の実態が過半数を割り込む実情やら(この時点で『共同幻想』の権威性プルーフの多数決上位構造は自戒してしまう)説明してきたろころです。

簡単に言えば『予め舞台設定された状況における自分の配役』のような認知で自我の存在を認知する『共同幻想』特有の社会的基盤は予めおり込み済みの先進国化の中で弱体化・脆弱化するワケで。
(ちなみにネットにおけるSNSはそこに派生したスキマ産業のようなものになる。)
うんで、
『単独者』的な実存がどういう事になって『リアリズム』として自我の統合なり主体論なりを構成するんかということだけれど、
「ニワトリか卵か」のような話でもある。
■単独者が実存を体現するとも言えるし、その構造は『抗(あらがう)』形でのリアリズムの追求なので自動的にそれは『単独者』の事だとも言える。
そこんところのバックグラウンドが『近代・共同幻想』が「ようやく文盲率が下がった」あたりで本格化するのに比べて、先進国下・高福祉下における核家族(或いは結婚によらない出生率が5割越えによる母子家庭を基本とする”もっと核世帯”)と高学歴化により『リベラル系後期先進国・単独者』の図式は殊更大きな変化という事でもない。
(勿論『近代・共同幻想』時代から『単独者』はいたわけだけど、これは偶発的環境も込みで発生していたと見てもいい。「そういう自我の才能」みたいなものは概念としてナンセンス←理由は考えるまでも無い話で、群れを形成する生物は「好きでやっているのでは無く」捕食生物などに対する安全保障としてであって、アダムにも似た”ペット化環境”などで証明されているように環境が許せばあらゆる生物は単独行動化するもんだと考えても大きく間違いでは無い。)

そしてー心理学的な見方なんだが、
『反抗期』でこいつを検証するとだ、
幼児期幻想ってのは自らの発育やらで台頭する「個人的快感獲得能力(てか本当は人間が妙な進化していなければ生まれた冒頭から持っていてもいい能力が)」”人類普遍の不具者”の立場から遅ればせながら機能回復するためで、その交換性(誇大とも言えるイメージに対しても経済学的に交換価値があるように認知され)により”幻滅”過程に以降する。
(注:この成長により獲得される能動性なり個人的快感獲得能力なるものは、実現だとか体現されている必要性は無い。「ひとりで好き勝手に歩けるようになった」に起因する”可能性”は”未知”であるため仮想無限大なのでこいつが”誇大性”とタイマン勝負できる鍵となる。又、仮に当事者が巷で言うところの「どんくさい特性」なんてものの持主であっても、想像するのは誰しも自由なのであり(ここ言うならば「アウシュビッツでも人の夢を縛れない現象」のように)仮に独房に投獄される人生であっても標準的に起こりうる現象になる。←これを潰す方法は強迫心理なりのレトリックの中で結果”自分から過去の世界”に引きこもった場合、或いは強迫心理的”設定”を強行に保守する場合。)
■さてここの説明で、心理学的解説つけると、
幼児期の誇大性が(何の演出効果なのかは個別に違うので類型化できない)何かの拍子だとか、幼児の創造性だとか、難解な親の言動で「ちょっと収拾がつかないほどの規模」である場合(まーいわゆる強迫心理元ネタ化)、経済原則として「(誇大性部分が相対デカ過ぎて)交換価値が派生せず」『反抗期』の幻滅が起きない或いは中途半端になってしまう。
(ここがメンタル問題のネタバレ)

このブログを始めた頃の社会情勢ってのは『共同幻想崩壊指標』的にですな、総務省辺りの調査が6分4分か5分5分だったので、『共同幻想』は崩壊過程であり(それが自明なのはわかっているのだが)今後えらいことになる的なコメントに寸止めされていたんだが、07年民主党への政権交代が起きたあたりから更に状況は進み、最近は遠慮なく『単独者化への時代へ転換している』と説明している。
かといって、
メンタル問題の出口が100%『単独者選択』となるのではない。
前回の『共同幻想の現状論』で書いたとおりで「確信犯的『共同幻想』保守選択」というジャンルも消える事は無い(文明の連続性が何らかのSFチックな現象で断絶すれば別かもだが)、理由は簡単で「権威性価値体系」なるものを成立させることができる”限り無く普遍的ファンダメンタル”は事実上(当時国家が後期先進国を続けているのであればを条件に)”不滅”だからだ。=「伝統文化」。
現行母数の集団多数決による『共同幻想』では無くって、自己選択される『様式的共同幻想』の方ね。
これまで「確信犯的(再選択型)『共同幻想』保守系」なるモデルもそのまんま『共同幻想』で説明してきたんだが、これ本当は別の言語表現にした方がわかりやすいのかもしんない。
(まーそれはともかくどうでもいいっちゃどうでもいいことなのでなんだか特殊な呼称を考えようってつもりは全くないんだが。)

■『単独者』そのものは説明できない件
『共同幻想』はなにげに社会学みたいな流れでつらつら説明できるんだが、『単独者』ってものの”各論”をあーだこーだと論じることは構造的にできない。
(説明できるのは「そんなわけで『共同幻想』に対してアンチテーゼになっている」てな後日談みたいなところに限られる。)
「個性とは何?」の問いみたいなもんだわね、
「誰の」が特定されないと答えは「バラバラの状態」みたいな事になるから、各論に関しては説明になんネーっつか説明する事自体に意味が無い(「いろんな人がそりゃいるでしょう」で終わり)。
ギリギリ説明するならば「好き勝手にしている様」とかになる。
なものだから、実存主義哲学なんぞにおいての説明が「反抗する様」までになるんだな、
(※ここ毛沢東の『造反有理』と全然違うのでトンデモの勘違いしないように、←アンチテーゼを語る手法的には被っているのかもだが、)

そして心理学的に言えば、この実存主義哲学の「反抗」ってのが『反抗期の様』から考えれば、
「”幻滅”が発生する自我の経済状況」って話になり、
確かに『反抗期』ってでっかい現実アップデートの時には荒れもしたり激しいものだったりするんだが(なんての経済で言えばデフォルトとか)、この姿は「既視感的現実に対する個人的発見の認知」局面で永遠に継続するワケよ、
 ↑
生きているんだからさ、生存証明じゃないが、今見ているつーか認知されている”何”は誰とも互換性の無い”新ナントカ”なんだわ(言語化の過程でそれを「自分なりにこうだ」みたいな思考だとか考察になるんだけれど←おひれはひれと説明しないといけない熟語とでも言えばいいか)、
えーこれが『リアリズム』っちゅうワケだ。
(体感されている状況が”リアリティー”)

■だから既視感的世界観で語られるなんとやらに対しての認知は「なんか(『共同幻想』的な)話聞いてもリアリティーが無いな〜」とかの返しになる。
或いは「どこの世界の何の話をしているのかピンとこない」だとか、
(この時既に当事者は『単独者系自我』の様相になっていることになる。)
つまり『単独者』は配役のハマリ度でリアリティーを感じているのではなく(=アイデンティティー感でもいいかな)、行動原理が『リアリズム』なので共同幻想などの権威性認知でそれをプルーフする必要性が無い自我構造になる。
(だから『単独者』の場合『自意識』を”外から”拘束するような権威的認知こそがリアリズムにとって邪魔なものになるので(心理学的に言えば刷り込みで導入される超自我)、スタンスは『アンチ共同幻想』であり勿論『アンチ強迫心理』となる。=『抗(あらがう)者』。)

岸田教授の時代の解説だと、
「それを説明しても共同化図れない概念は、無意識化しがちで自我統合上なんつーか」みたいな説明あるんだけれど、これは当時の社会情勢の話であって、
共同化云々と関係無く、表現の場というかだね「表す場所」があれば”現在進行形”でそれは実存”しちゃう”のだよ。
(言いっぱなしの話では無く、組織や社会という概念っつーより”外的に既存するインフラとしてのネットワークのいずれか”のような場でそれは”双方向性”を持ったまま実存するワケよ。←だからコメント欄を削除したブログには既にリテラシー性が無いとかのアレになんのさ。)
で、場所論的に「それは後期先進国の日常的インフラだ」というオチだわね。
(インターネット社会しかり、NPOやNGOだとかボランティア含む”非権威営利性ネットワーク”は後期先進国の十八番なんだから。)
 ↑
つまりメンタル問題的状況を継続するためには「なんらかの引きこもり状況」を作らないといけない。
強迫心理なりのレトリックの中で結果”自分から過去の世界”に引きこもった場合、或いは強迫心理的”設定”を強行に保守する場合。
(※「だーかーらー精○病○における閉鎖なんとかがナンセンスだと欧州辺りで結論鉄板化したワケよ、開放云々じゃないと意味が無いと。」)
或いは「孤立状態の自作自演的認知」とかね、
(※ここがいかにも強迫心理なのは「孤立」の概念が母集団をデフォルトとする『共同幻想』だけの話だから。)
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posted by kagewari at 03:51 | Comment(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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