2013年04月19日

リアリティーだとかバーチャルリアリティーだとか

この辺の言葉の使い方がまた難しい、
難しいっていうか「こう使えば当たり」というものが”無い”。
実存的意味あいの”リアル”というのは(それこそ唯幻論的に)あり得ない状態で(哲学で言えばイデーだとか云々でしょう)、観測すべき対象だが自らそれで在ることができるのでこの場合実存とかって感じのくくりになるんだが、少なくとも人間は周囲における現実というものをリアルなまま認知することは不可能だし、リアルをそのまま観測する事も不可能だ。
(それは所詮脳内処理された限定的な光学情報に過ぎないとか性能的に何の指標をデフォルトとするのかなんて定義は自然界に無いのだから。)

これを人の脳は『イメージ化』のようなプロセスで認知していて(これは複製なワケだから)、映画やドラマがリアリズムを伴って認識される現象の説明と同義となっている。
巷ではオタク論的な時にやれ「二次元」だとか言うのだけれど、人の脳が現実なり事象をどう理解しているのかと考えた時、「絵画で遠近法がうまく表現できない人」っているワケでして(笑、言うならばその人は『2次元イメージで認識』しているのだから、2次元なんてものは何もオタクに限った話なんかでは無い。

ちょっと話は逸れるのだけれど、
(なかなか面白い情報が集まるので’俺は頻繁に「海外の反応系ブログ」をよく閲覧しているんだけれど、)
日本のほのぼの系日常アニメを見ると『鬱になる』という現象があるそうです(自分の現実とのギャップから)。
逆にカタルシス効果的に(ウロブッチャーものみたいな)主人公含めて全員があまりにも酷い的なバッドエンディングものを見ると「スッキリする」という事になるそうです。
(※事実欧米では3Dで一躍有名になった『映画アバター』を見て(現実との乖離に)鬱になるという現象も各地で語られているらしい。)
これはある意味創作物であるイメージがそのまま脳なり自我なりに影響を与える様を表していて、即ち「本物の現実」も似たようなというか「その程度の」というか、脳内では「どっちにしても」イメージ化された認知として成立している証明になる。
(現実と映画の違いは「終わりの有無」ぐらいのものか、)

■唯幻論のキモだけれど「どうでもよくない事などこの世に無い」の真意は(こいつはオーディオ評論の長岡氏の「いい加減にします」とほぼ同じような見方なんだが)、どうでもいい事だから適当にって事では無くって(長岡氏的には「その適当では無くてピッタリという意味の”適当”だろう」とかにもなるんだけどさ)、心理学的な意図は『こうに決まっている認知の否定』であり、強迫心理のバックグラウンドを説明するまで無く(こうに決まっている認知として現れる)、自我に認識されているその動的特性が「こうに決まっている時点でアウツじゃん」というところにある。
(遠い目で言えば「あんたはリアルを認知できる神なのか?」という趣旨、)

■更にここで言う『抗(あらがう)』という現象(元ネタは実存主義の”反抗”であり心理学的な『反抗期』の分析から)、
これは「幻想のアンチテーゼ」だから”動的リアル”ってば言いのかね、
(決っしてリアルを獲得する事は100%あり得ないが、幻想の中現実へ抗い続ける事が=「リアルへ」という自我の「自我そのものがリアリズムを体現するので実存だわな的な」有様(在様)ってことになる。)
ある意味それは「負けるとわかっている勝負への賭け」のような普遍的なナンセンスを織り込むのであり、そこんところが余計に『唯幻論』であるとかだね、一期一会であるとか諸行無常というか、そこに噛んでくるんだな。
平たく言えば、わかりやすいリアリティーに乏しいんだわ。
(結構アクセル踏んでリアリティーを頼りにするのでなく、リアルと化すって方向の話だから。)

『共同幻想』なるものを考えるのであれば、
迷える子羊シンドロームにならぬように、基本的なところ(特に社会性において)『デフォルトのリアリティーを定義しちゃう』仕様なんであって、
(※ドラマの配役や枷が予め決まっている。『共同幻想な人生』とは言い替えると学芸会の配役を決められたまんま「ひとまずそこから生きる」みたいな「生涯その1役一筋」のような人生である。)
営業トーク的に言えば「『共同幻想』すっごくわかりやすいリアリティーがあるので安心ですよね、でよね〜」みたいな感じになる。
(※ちなみに新興宗教とかもそのドグマを利用して似たような「そうに決まっているんです。ほらね、あなたもそう感じるでしょう」的に人の強迫心理を『リアリティー化』し強固に取り込む営業方針で運営されてます。)

一見『共同幻想』の見る現(うつつ)ってものは現実なのだと錯覚されたりするんだけれども、
それは幻想っていうか限りなく「夢物語」に近い脆く儚いもので「余命○年の幻想」のようなものだと言っていい。
保守的『共同幻想』適応人格における幸福論の典型事例に「笑顔の絶えない家庭」なんてーな代表事例がありますが、彼らが言わんとしているのは「喜怒哀楽のある世界(のなかでも笑いのがいいだろうという趣旨)」の事です。
勘のいい人はもうわかったと思いますが、
これって、、
面白い映画のシナリオそのものなんですよ。
(注:『共同幻想』が大変盛んだった時代では”お祭り”であるとか”お正月”であるとか酒池肉林のエンタメが地域文化に予め用意され、民衆はその「興奮のグルーブ感」みたいなものの中で「幻想のリアリティー」を感じ続ける枠組みのようなものがあった。)
起承転結じゃないけれど、一定以上の興奮の連続で息つく間も無く2時間終わったみたいなですね、
逆に言うと観衆を退屈させると映画の最中に素に戻るというか醒めちゃって面白く映画が観られませんよみたいな。仮に難解な映画でもエキセントリックな演出であるとかカメラアングルであるとかですね、いろいろ考えるわけです。それは「醒めちゃいけないから」。
『共同幻想』は現実というスクリーンに映した映画のようなものであり、極度に幻想性の強い代物です。だからこそ現代社会の『共同幻想』は確信犯的な伝統芸能のような体現無くして保守や維持は難しくなっており(これはこれで『単独者』選択同等の自己選択であり)、素の状態で『単独者』へテイクオフするモデルよか(確実にコレというのは無いが以前テキスト化した「トラウマ論を回避する育児」にヒントがあると思う)、難易度は上つーかめんどくさいルートになると思う。
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posted by kagewari at 18:49 | Comment(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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