それを一番意識したのが中学だったか小学だったか記憶は定かじゃないけれど、テスト期間前に仲良し小集団で行われる「暗記問題の当てっこ」やら、「謎謎系のネタ」やら「引っかけ問題的ネタ」やら全般に嫌いなのだが、一番気にいらないのは「答えが決まっている」事だ。
当然ここは学校教育のテストなるもの全般に関わってくる、
この辺の話をなかなか面白く書いているブログある
『住まいの心理学』の方のRSSフィードしているWIRED VISIONの中にありながら全然気が付かなかった奴なんだが(無責任すぎるだろお前)、読んでみたら面白いんだよなかなか(笑
書いているのが法政大学社会学部准教授の白田秀彰氏なんだが1968年生まれという事もあって世代的に近いってのも俺が面白いと感じている一因かもしれない、
まー、そんなこんなで彼のエントリーから一部抜粋すると(かなり引用長いよ)
白田秀彰の「現実デバッグ」
教育制度批判 その前に
私は、「教育制度批判」のなかで、「受験に対応した学校教育はクイズに過ぎず、くだらないので止めて良し!」と断言している。私はそう信じているから。無意味なクイズ教育で破壊された子供達の将来と可能性を思うと、私は心が痛み吐き気がしてくるほどだ。その社会的損失を考えるなら、いち早く学校教育を停止したほうがマシであるとすら思っている。
おそらく、「ペーパーテストが公平だ」という思い込みこそ、学校教育のなかで我々に設定された洗脳だと思う。現在の学校教育制度では、ペーパーテスト向けの知識を伝達することにしか対応できていない。すると、学校教育制度を擁護したいと思う人たちは、学校教育制度が対応し得る評価軸である「ペーパーテストこそが最も優れた評価軸だ」と主張しつづけるしかない。もし、他の評価軸で人間の価値が測られるようになったら、学校という機構の価値は低下するか、あるいは無に帰すだろう。みんな気がついているでしょ? 学校での勉強の出来と、人生の幸福がまったく無関係であることくらい。むしろ、最近の学校は、人間を不幸にする制度になっていると私は思っている。
まず、言語で問題を書かれた紙を前に、言語を用いて筆記具で想定された正しい答えを記入する、あるいはマークする、という手法が、そうした種類の作業を得意としない人にとっては不利だ。またそれは、「想定された正しい答え」が正しいか否かを疑う、高い知性と哲学的素養を持つ人にとっても不利な作業だ。ペーパーテストで設定し得ない問題の解決能力が優れている人には、その能力を発揮したり反映したりする機会すらないではないか。
人間の平等と公平は、可能な限り人間の評価軸が多様化し、相互比較が極めて困難になることによって、初めて達成されると考える。人間の幸福のあり方が多様化し、それぞれがそれぞれの目標を、それぞれ達成するよう努力することが、多くの人間が共に生きるこの世を修羅の世から解放する唯一の道だろうと考える。私には、現在の学校教育制度が、私たちの人生の評価軸を極めて限定していく作用しかしていないように思われてならないのだ。だから、私は現在の学校制度を批判している。 まして、「同じ年代の全ての子供たちを同一のテストで一斉に評価するから平等だ公平だ」などというような入試制度を疑わない知的怠慢を批判する。
(2008/03/05)
これだけでも「おーわかってんじゃん」
とかなり共感大なるところで、
次のエントリーではより踏み込んだ発言となる
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