2007年12月28日

心理学と一般論

何の話かって、
これが以外と「やっかいな話」(説明になってないか、、)


狭義の精神分析から考えた方がわかりやすい、
そもそも精神分析は計測用の機器(スケールとかメジャー)のようでもあったり、言語解析的翻訳機(なので個人的には”デ・コード”って言葉をよく使う)のようなもので、思想でも哲学でも無い。むしろ哲学における実存主義が精神分析的発想なんであって、精神分析単体は「動物行動学の方が相性がいい」言うなら「人間行動学」みたいなもんだから。

しかし世間と申しましょうか、一般論の世界はそれが一般であるが故に『共同幻想的決まり事や与件』が多くなる。
なんでしょうね言葉にすると「それをいっちゃーおしまいよ」とか「それはネタバレだろ」みたいなタブーを残している。

なものだから、”そこまで分析したらやり過ぎ”的「歩留まりの法則」のようなものがあって精神分析形の理論部分の話ってのは「そこまで話すと誰彼と無く怪訝そうな顔をされる」ことも随分ある。しかしここからが「やっかい」なんだが、
精神分析は体系として「どこまでも分析できるから理論になり得ている」とこが、逆に精神分析のわかりやすさ→「制限無くタブーも無しにロジックをオープンソース化する仕組み」なのであって、検証とかその証明(プルーフの方)の意味で、制限付きにすると大幅に分析の理論的な背景が破綻してしまって、関連を認識すれば「ある意味特別な才覚無くても理解が早い」ものなんだけれど、制限をつければつけるほど「分析そのものが難しくなる」傾向がある。

それこそ「局面局面の一部のみ精神分析の理論を拝借」すると、「そもそもどうしてなのか」的な背景が関連性が欠落してしまうので、”臨床例的な統計分類”しないと「どれがあてはまってんのか」わからなくなってしまう。

なので、精神分析を使える使えないって才覚があるとするなら、「どれだけ与件化された構造が少ないか」とか「共同幻想の外側から共同幻想を第三者として認知しているか」なんかが重要になる。
これって=『アウトサイダー』だから、
ある意味、単独の開業医なんてスタンスが映画的な絵として似合っているのは、シナリオの枷的にも都合がいいからで、絵的に言えば正義感に燃えてもいかんし、個人的な思想や心情を投影してもいかんのであって、自分自身の立ち位置が常に第三者的であるのが適正になる。
精神分析が使えるといっても、何も用の無い時は「只の人」だから。
そもそも権威性は馴染まない(権威性のコアとなる倫理的道徳判断なる部分にリテラシー的意識は高くてもヒエラルキー的順列を持たない)。
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タグ:精神分析
posted by kagewari at 17:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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