2007年07月11日

当事者意識についての誤解

言葉としては『当該意識』の方があってるような感じするのだけれども、当事者にも違いはないので言葉的にはアバウトでもいいでしょう、
鏡像論と例の量子力学論を拡大解釈すれば、即ち認知されている現実は『自意識に脚色された舞台に過ぎず解釈の余地を残す一定のシステムである』となるんであって、現実なるものを認識する事はできても、これを特定したり個別に論議する事はできない。
現実は認知された現象だけの矮小な事象であり同時に観測された時点でそれは既に過去のものだからこれを総じて認知するなら、一定の確立による推定を超える事ができないからだ。

この現実の非計測性は、ついうっかりすると「現実的」なる言葉の”的”部分の推定の事かと勘違いされてしまうんだけれど、この両者は全く別物。
現実とは一定の推測と、その瞬間過去として認知される事によってしか証明できない”全体”を指すのであって、ロジカルな個別の推定の無難な線を意味する「現実的」なる言葉とは概念から違う現象だからだ。

厄介な事に、この現実なるものは当該する自我にとって必要な概念に過ぎずひょっとするとある種のパラドックスかも知れないぐらいの勢いの代物で、『実存』で考えた方がよっぱど認識性も高い。
まー哲学の実存主義を哲学として考えるほど深い話じゃない、
実存主義哲学には発想そのものに心理学的にも偉大な発見があって、それを使わないでどうするみたいな話。
つまり、唯幻論ってキャッチコピーがそれこそキャッチなのは、そもそも自我が認知する現実の”現実”がいとも矮小であるからで、哲学的な意味での実存は認識されるべきロジカルな見方じゃなくて証明される存在の事になるので、「ほんとう(実存)はこーなんだけれど、当事者として関与する私の自我にはこーなる(現実)んだよな」な世界に自我は置かれている。
つまり当事者意識とか当事者責任、当該意識って代物は「ここに自分が関わる関連性や連想性から現実を切り分けしている」のであって、評論家的存在でもある。

その評論の論旨に意図的なベクトルがかかると、「ピカソの絵は子供の落書き、で終わり」でも何ら不思議じゃない。

つまり当該する自我によっては、執行者である自意識に「人類にとっても貴重な芸術」にも見えたり「一円の値打ちもない単なる落書き」にもなる可能性はどこにでも存在する。
それを決定しているのは”自我の関与”であって、そこに実存している”ピカソの絵画”は何ら変化しているのではない(自我に認識されない要素こそ実存=自我に認識されるものは幻)。
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posted by kagewari at 00:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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