2007年07月04日

システム論

再三心理学をテーマにした話で登場する『共同幻想』って言葉だけれども、これを心理的な切り口じゃなくて文明化社会におけるシステムとして考えてみよう。
どうも心理学的な話だけだと、心理学の性質上概念のあり方が個人ベースに偏りがちでどうにも社会学的な社会適応的発想との関連を認識しにくいからだ。
実際の話個人心理学の水平で集団心理の枠を論じていても、「仮想敵国の心理的な意味合い」てーな枠から出る事は多くないので、『共同幻想』をベースに派生する集団心理や社会心理ってな存在の構造それ自体が説明する事に無理がある。

卵が先かニワトリかって話に限りなく近いんだけれども、これシステム論で考えればモデル自体は実にシンプルだ。
社会を構成する個を想定するためには、仮想上の普遍的自意識を各々の個に定義しなければ共通意識としての合理性が担保できないのでその集団を社会とは呼べない。
かといって、個々人に無秩序に仮想上の普遍的自意識を定義しても各人の考える集団的秩序という概念がてんでバラバラならそこには”法”というような外部的な概念をガチではめ込まないと機能しないし、その準備段階としての”教育”というシステムによってそれを実証する必要もある。
ところが、仮想上の普遍的意識って奴の容量は逆算する事も出来ないし、話の発端である個々人の自我の発想その全体を拘束する概念は存在しないのだから、機能的なシステムとしてこれを完成させるためには随分と哲学的に広がった普遍的価値体系でこれを拘束する方が機能的であるには違いない。
たとえば”バイブル”や”コーラン”、
しかしダイレクトにその著者に書かれた意味を問う事のできないロジックは、常に解釈の予知を残し結果として普遍性そのものを担保できないので、確かに民族性であったり地域文化の醸成に一役買う事は間違い無いのだけれども、それが完全な社会モデルの構造に寄与するのかって言えば「何とも言えない」のが本音、

近代以前の血縁社会で言えば、その普遍性を非個人的血族の常識的なくくりで自我の自由度を拘束してその共同幻想の収まりを担保する事も可能だったけれども、この場合には地域性や伝統といったもので、そもそも各血族の普遍的価値意識を擦り合わせしない事には、いけないのであって個々人レベルでは安定しても、社会としては至極不安定でもある(アフリカでは氏族間の戦争が今でも続いている)。

近代社会ではこれを民主主義による「改正を延々に継続する法」という概念で構成する事になるのだかれども、いかんせん運営に時間のかかる民主主義社会では、外部化された価値体系を構成する事はできないしそれは超越的にも上部構造的にもなり得ない。
むしろ「改正を延々に継続する」という民主主義における最も重要な部分が、法案の普遍性を逆に毀損してしまうから、その外部的価値体系は常に暫時的だし刹那なものでしかない事になる。
近代以降の共同幻想の不安定化は、そんな社会の流れに応じて流動化し曖昧化するのだけれども、結果として「個々人の自由度の拡大」をそのバータとして獲得する。
回答は実にシンプルな物で、共同幻想の不安定化による個々人の人格モデルの不安定化も実体として個々人の独立する価値体系によって代行されて→民主主義の発展とパラレルに関係するってストーリーになっている、
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posted by kagewari at 16:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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