2006年11月21日

集団心理や考え方とか

精神分析だとかのジャンルは専ら個人心理学的位置付けに偏りがちなんだけれども、自我の構造の中でも超自我についての論議だけでなく、経験的な判例主義的判断を含めて必ずしも自意識が主導権を握っていないエリアがある。
そして超自我がそうであるように、現場対応を活躍の場とする自意識に比べてフォーマルなルーチンワークを担当する超自我系列の(構造としては超自我の補完的知的資産)存在は上位概念になるし、感情としてストレス信号を送る頻度も自意識マターとは比べ物にならないぐらい多い。

何故ならそもそも超自我の発端である「良い悪い」の導入過程で、不快感を伴う記憶や快感を伴う感情的興奮がワンセット(連想記憶の方法論のように)になっているのだから感情的興奮を伴うのが超自我の商売だと考えたっていいぐらいだ。
その点で、意識レベルで「どうなってんだよ」とかの現場対応ストレスが中心の自意識マターに比べれば、感情の支配率としては超自我は圧倒的でもあるし逆さまに考えると「超自我マターだな」と認識された時点で人は安易に感情的になる。
この超自我系列のアイデアこそ、延長上の連想として「社会」に結びつく分野となるので社会適応のフェーズから見ると、決定的な要素だといえる。

ここに『葛藤』現象を理解する上でわかりやすい構造も見える。
つまり、上位概念である超自我(反射的に判断する分野)と現場対応担当(考える分野)の見解におおきな矛盾を抱えてしまうと、どっちに動きの取れない不快感が発生する。これはストレスを代謝できないプロセスからくるもので(この構造をフロイド的に「リビドー充当」とかって見てもいいかも)解決を求めて自意識のアイデアを抑圧し、これを制圧する反動的超自我が組み込まれる(鬱構造)という形にもなる。

話は戻るけれども、この超自我こそ集団心理のコアとなるもので、共同幻想であったり集団が暴走する時の”動力”となる(個別のアイデアが介在しにくいのでこれを「動機形成」と捕らえるのは難しいだろう)。
この段になると「被(こうむる)」という構図も見えてくる。つまりこの時自意識は心理的な現象の”渦中”にあってその立場は受身になるからだ。
無力って事は無いけれども、感情的ストレスを前にこれを「自分なりの考え」によって反抗するには相当の力が必要になるから「ちょっと疲れがたまっている」等の時にはとてもじゃないが抗しきれない。
結果的に「気がつくとどうにも引くに引けない立場に立ってしまっている」等の二次災害にまで発展すると自意識の感じる被害感(二次的ストレス)はこれまた甚大だ。
続きを読む
posted by kagewari at 19:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


Amazon 2
所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




comments他

・コメント欄は『公開掲示板』同様に原則削除禁止です
(基本的に削除依頼には応じられません、削除依頼は投稿禁止ワードとなってます)

・SPAM対策として一部キャリアからの投稿がIP規制の対象となってます
(同規制キャリアから登録抜けによる投稿がある場合、投稿は自動削除されると同時に規制IPに追加登録されます)



現在コメント欄閉鎖中 (2014.7.26〜)



LINK
□ダークサイドオブkagewari(ミラー)
■retour&Retour
□etc;;Blog

kagewari01
タグクラウド
RDF Site Summary
RSS 2.0