2006年11月09日

プライド論

尊厳論と言ってもいいのかも知れないが、とにもかくにも独立型個人にとってそのプライドの実存は大きな意味を持つ。共同幻想的な規律によって常識として保護されないからだ。場合によってはそのプライド保守を動機として復讐や自殺に至る(心因性とは関係無く)ケースもあるので、どれほどの存在であるかは誰しもなんとなくはわかっている部分に思う。

そもそもそのプライドや尊厳ってものはいかなるものか?
果たして自我の存在意義に関わるものか、或いは自我における自意識の存在価値を決定するロジックなのだろうか。ここにも多数の論議があるのだと思うけれども少なくとも心理学的には”自我の存在意義”と捉える話になる、
何故なら自身の尊厳を考える時には、無意識の領域ともいえる超自我(道徳心や象徴化された権威性)の関わりが大きいからで、どちらかと言えば現場対応が中心の自意識にとっては(超自我から見れば優柔不断な存在)、プライドの平均値なるものは低い方が都合がいいのであって、本質的に自意識のプライドってものは「自己の言論としての立場」に限定される(=自意識リードの覚醒的な人格の場合には”自尊心”が超自我を上回る場合があるけれども、それはレアケースだろう)。

つまり、自意識にとって自己のプライドとは(上記のレアケースを除き)「自分ではどうにもコントロール出来ない感情的な反射」となるので、見方を変えればやっかいな存在でもある。ここいら辺は昨今のいじめ自殺問題とも絡んでくる部分なのでちょっと詳しく説明しておきたい。
自尊心(自覚的な自分自身の尊厳)と違い、無意識的な尊厳やプライドは常に合理的な現実に照会されない深層心理の”イメージ”であるため、場合によると「たいしたことじゃないのに」過剰に反応する事もある。その時には自意識ににもその自覚があるもので(これは抑えられないとか)、こういう事例に触れる関係者にも「この人の微妙な部分に触れてしまった」と感じるもので現実その無意識の尊厳の非合理性それ自体は問題ではない。むしろその現場の人間関係上の「配慮」等の運用面になるので、現場社会の風通しさえよければトラブルに発展する事は無い。

問題に発展するのは、現場社会の風通しの悪さ(問題が常に隠蔽されたり、抑え込まれるような閉鎖性)と、同時に社会を構成するそれぞれの自意識に当事者能力が欠如するケースだ。
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posted by kagewari at 23:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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