2005年01月28日

ブログのジャンルを今ごろ知った

考えてみたが、「ジャンル何かな?」と見回してみたのだが、どうも適当なのが無い。健康とかの中に『心理』は無いし、いろいろ眺めて『文芸』こりゃどうかな〜とも思ったが、そもそも『神経症』(心理的問題の総称)なるものが医療っぽいジャンルで取り扱われる事に(心理学的に)問題もあると考えているので(所謂医療には含まれる症状は『症状として』ある)、文芸でいいか、、とも思う。

特に会話というか言葉(言語だけに限らない)に拘る精神分析ってのの土壌は、「かなり文系」で、およそ理系とは言えないので、それでいいのかも知れない。医学の分野には昔から「東洋西洋」の区分けがあったが、「文系理系」の区分けが無い、なんとなく精神分析は「人文系」になってる。ここんとこよく考えてみっと、「抑圧された心理を分析する精神分析」というのは(普通の世界の話じゃないが)何か悩んでいる人にだけ当てはまるもんじゃなく、深層心理なんてな言葉があるように、「抑圧された心理を分析する精神分析」なんであって、誰にせよあんまし愉快な話じゃない(抑圧するぐらいんなんだからなんか理由があるワケで)。そのスジとか事情通からパージされて、ちょっと脇に寄ってるのも「精神分析が精神分析」だからで、人によっては「それ(精神分析)はヤバイものだろう」と訝っても不思議じゃない。
バッチシのジャンルが無いのが又『精神分析』らしいとこだと妙に納得する。

しかし『文芸』ってな、それはそれで高尚で似合わない気もするね〜
書いてる自分が、そのつもりが全く無いのだが、、、ま、いっか。

次は『記憶』について考えてみようと思う。
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2005年01月20日

『葛藤』(3)アイデェンティティーとの関係

葛藤構造自体が「この人だから」出来上がっているので、アイデェンティティーの在り方と葛藤の構造はほぼ同じになる。

実際葛藤構造が温存されて自我に保持されている所以は、それが『自分自身の一部』と化してしるからで、見方を変えると、『葛藤はアイデェンティティーか?』として考える事もできる。
しかし、この問いはパラドックスだと言える。

何故なら、

葛藤は、『必要とされて備わったアイデア』で、この必要性が事実ならともかく、(葛藤形成)当時の人間関係の事情に依存しているからで、ここには誤解が随分と含まれる。『偏見』に非常に似ている。事情がわかればそうと思わなかった事がアイデェンティティーだとしたら、それは「普遍」では無く「事情」になる。

皮肉な事なんだけれど、『葛藤の結果』こそがアイデェンティティーなのだと思う、「悩んだ事や、その経緯」誤解を元に起きたいろんな話は「自分が自分でなければ起きなかった話」で、これは事実だからだ。喩え精神分析なんかを経て葛藤構造が瓦解しても、昔の『葛藤時代の結果』は過去として残り、その時身に付けた嗜好や趣味、癖は自分そのものだと言える。

これまた皮肉な一面なのだけれど、葛藤をアイデェンティティーと定義すると、その後の『葛藤の結果』は単に面白くない不快な記憶に過ぎないけれど、葛藤構造が瓦解したところからみた『葛藤の結果』は、自分自身が戦った栄光ある戦歴で、それの動機がどうあれ、その内容がどうあれ「あー俺もイロイロあったな」と思い起こしても不快に思うことは無い。

『記憶の快・不快』は、180度逆転する。
タグ:メンタル
posted by kagewari at 05:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月19日

「まるきし時間が足りない」を心理学的に考える

実際どうなのって、表向きの(本業は精神分析だと常に思っちゃいるのだが)仕事がハードすぎて完全に右手の人差し指と中指が腱鞘炎になっている。
これいかにPC(スティックのポインティングデバイスのせいなんだが)使っているかって事なのだが、とにかくPCを閉じている余裕もない、FIVAはリサイクルの大型バッテリー使用で5時間はもつんだけれども、バックアップで残量の心もとないノーマルバッテリーがコートの内ポケットに入っている始末。

このバッテリー二本差しで、「充電できるとこネーかな〜」なんだからそりゃ指もいかれるってワケだ。

昔の文明批判の典型に(チャップリン辺りがはじまりか)「人が機械に使われる」な表現があるけれど、実際どうなんだろう。
本人は「マシン使い倒してる」つもりで、「よく壊れネーな〜(実際壊れているのだが、、、)」なんて思っている。
昔の文明批判があたらないと思うのは、組織のオーダーで使っているのじゃなく、自分が勝手にハードに使って自分でヘバってるってとこなのだが、ヘバッてる事に違いは無く、どうもすっきりとしない。

自我にはバシッと「ここまで」とブレーキかける力が弱い特徴がある、何故ってそれは『本人マター』で、疲労がストレスとして自我に情報を与えるワケで「我疲労を思う」的に「ダメダメ」と自我主導で動くって事はあんまし自我の本職とも言えないからで、こいつは意識的に(超自我的に)「自己管理」なーんてものが出張る話なんだが、超自我の干渉をほとんど受けないだけ自我が前面に出ると「益々ブレーキかける力が見かけ上後退する」
これが又皮肉な話で、意思の器官である自我に「自我もほどほどに」って意思を持つってなー内的矛盾なので合理化(精神分析的には「辻褄を合わせる」の意)すんのがやっかいだ。等といいながら、又PCを使い倒して「指痛ェ〜」とか言ってるワケで何をしてるんだか、、

「自我もほどほどに」
posted by kagewari at 06:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月09日

ここでまたモバイルPCについて考える

なにかと漂浪しながら仕事をしている身なので、「マシンはモバイル」が原則で何が一番大事って、バッテリーと重量や信頼性になる。
愛機FIVAの信頼性の無さ(「いつかCPUのハンダが剥離」するって致命傷がある)にも随分と悩まされてきたのだけれど、とにかくハードな使い方してるので、少々無理をしても簡単には壊れないFIVAは、致命傷があるにしても使いやすく、「壊れたら中古を買ってHD入れ替えで」という作戦があるので、なかなか代替機がみつからない。
OSはwinMEなのだが、メモリー増設とセッティングで「OSがなぁ」と思う事も最近無く、快適に使えている。

しかし

そんなこんなしているうちに、スティック式のポインティングデバイスに置く人差し指に痺れが出てきた、HDの振動のせいもあるのだが、何せマシンを使っている時間が長い、
そこから考えるとどえらい早さで減価償却しているのであって、マシンのスペックを上げる事はいろんな意味で『重点項目』なんだけれども、これというのがみつからない。

このなんてーのか、ちょっとでも仕事を早く切り上げて休むって流れが欲しいのだけれども、「マシン待ち」が多いワケだ。「通信速度の遅さ」と「ビデオメモリーとCPUの問題で表示の遅さ」があって、待ち時間にポインティングデバイスのスティクに置きっぱなしの指が痺れてくる始末、
そもそも「モバイルPC」である事自体小さいので使いにくいとこ以外は「便利で楽」な筈なんだけれど、自分で休み時間を管理しないと「いつまでたっても使用中」ってな事で、いんだかわるいんだかわからなくなる時もある。

「気ままに使えるマシンは高速」
やっぱどっかが矛盾している、これでいいのかねぇ???
posted by kagewari at 05:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月01日

悩みについての、一断面。「普通との違和感」

それこそ、紅白歌合戦じゃないが、
現代所謂「普通の人」ですら、「普通との違和感」を感じない人はいないだろう。既に昭和からこの違和感は次々と発見されてきた。
・毎年のお歳暮は必要か
・世襲により家業を継ぐのはどうか
・縁談待ちで結婚していいものか
・「義務教育期間は教育は国任せ」でいいのか
そんな時代も長続きする事無く
・終身雇用はどうしたものか
・新しく起業する時の、規制はなぜなくならないのか
・減反でいいのか
・塾に通うって事は是か非か
そんな時代が長続きする事もなく
・サラリーマンでいいのか
・ベンチャーへの資金調達の市場が必要だ
・遺伝子組み替え食品はどうかと思う
・大学の社会人コースの拡充をどうするのか

全体として「これでいいのか?」

そもそも違和感の発生自体が「共同幻想の幻想性がバレた」って事であり、「広く普及してほしいので、理屈っぽいのは馴染まない」として『構造的に理論武装しない普通=保守』というのは、「違和感」だけで容易に論駁されてしまうので、
『違和感を感じた瞬間その人には、もう“それ”は普通じゃない』
  ↑
共同幻想の瓦解

この違和感を広く普及させるのが、メデイア(共同幻想の進歩的機能性)なもんだから、「文明性」=「発展(=実際は手を変え品を変え)」、「普通は細分化して、人の心理を安定させる公の理は信用を失う」んなのがそれこそ自然の理。
まあ、代表がバイブルなら「最初は本」で、この進歩的結果は「インターネット」って事になる

もっぱら先進国には精神的な悩みが多いってのは、論証の必要も無い事だろうから、悩みと文明の必然性をパッケージで見ていかないと、あんまりにも話が私小説的になって、何が何だかわからなくなる。そっから考えると、悩みについての一段面として「普通との違和感」は欠かせない。
(ここでも誤解されそうなので付け加えるけれど「普通じゃないのがいい」という意味では全く違うんであって「自分ならこうかな」って「“普通”に考える」って事で、「普通じゃないのがいい」のでは無いが、「ううん、僕は普通じゃないかから」と言うのはアリで、、余計わかりにくいか、、。つまり人にそれを説明するなら「普通との違和感」だから普通じゃ無いのだが、内的には「それが普通」って事。)

ここでひとつ見えてくるのは、悩んでいる時に頻繁に使われる表現「普通は」だ、

悩む=巷の処方箋(四文字熟語とか、おっさんの説教とか、友達の「〜なんじゃない」など軽いノリのコメント)では「ピンとこない」=「これでいいのか?」な筈、
だけれどそう(=「これでいいのか?」)簡単に直結しない。

「普通は」

自我論で話している通り、「悩みってのは、道徳的なとこに葛藤が入り込んでいて、自分自身を脅迫(強迫)する」という事なので、これは悩んでいる状況ならではの必然的な(矛盾する)キーワードになる。
「普通じゃなければという強迫」とか「そう思っていないのだが、気が付くと普通だと言い張っている」

逆さまに考えてみると???

悩んでいる=その答えは進歩的=これがマジ『進歩』になると、昇華で話した誤解(なんかいいことや「成功」じゃないとダメかと、つい思ってしまう)に足元をすくわれるので、勘違いに注意。進んだ先は「いいとかわるい」と全く関係なく(月を歩いたからといってそれ自体にたいした意味は無い)、「進歩(歩いて進んだ)か否か」がぁ問題になる。

悩みついて理解が深い人や、実際悩んでいる人や、その周辺には「この意味不明の進歩性」への親和性が強く、本来この進歩性が解決そのものであるんだが、
『意味不明』=『納得するほどの甲斐が無い』
という、これまた必然的な非親和性がある、ここをどうやって媒介していくのかが、『言葉』なんだが、

こいつがホントに難しい。
posted by kagewari at 18:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照

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