2004年10月25日

自我の成り立ちについて(3)

さて、この『関わり担当の独自性』ってのが、極々当たり前であることが、自我創生期を考える事でよーくわかる。

あるヒト科の若い個体に向って、この個体の生存の全てを握る人物が自分を指差しながら「ママママ、ママ、ママ」個体を指差して「○○君、ねわかるでしょ=っ!!」等と始るのであって、そりゃ若い個体としても「自分は、、○○君なのか、、」と思ってしまうワケであって、
そしてその後「○○君の素性(ほとんどドラマのシナリオを貰った時の背景説明を聞く役者の心境)はね、お父さん、お父さん、○○君、○○君!!!、○○君!お父さん、お父さん、(笑顔)、そしてお婆さん、お婆さんよ○○君ってば!○○君!」(かなり極端に表現してみた)と始るのであって、、「な〜るほど、何々君はこういう家族構成の人物か」と、、自我が始る。

なので、幼児の話の主要は質問だ。
「お婆さん、お婆さんって誰、ママのママ?」「お父さんは?何処に行った?」「○○君も行く、何故ダメだ?」

なんて言えばいいのか、、(汗
幼児が泣く時を思い出してほしい。彼等は「電車に乗るまだ乗る」等の期待が壊されると泣くのだが、この背景は「○○君のママは優しく、○○君の好きな事にはだいたい無条件に答える、それが○○君だよね」というこの役の設定(しかもこれは教わったもので、○○君なる呼び名で呼ばれる人物が勝手に考えたのでは無い)が壊された事に憤っている(乃至「騙された」「いじめだ」と判断)のであって、「これは違うんです」と説明を受けると「何故?」となり、納得の行く説明があると、これをオウム返しなどしながら「キャラの特性だ」と一文加えていく。そして「電車の運転手になる」等と言い始める。

このように「関わり担当」は、自分の設定を修正しつつ同時にそれを形造っていく。

この内容を俯瞰で見てみよう、、、
かなり異様な光景で、「第一このヒト科の個体は何々君とか、、そういうものじゃないでしょう」と
 かなり、、ななんというか引く話で、

■これに気が付いていたので、昔は違った。

「子供は親乃至家のもの」という流れがあって、高所から躾が行われたり、部下である長男や長女或いは乳母や祖母等の軍曹格の人物が鍛えるように「今日からお前は○○だ、呼び名が無いと困るからな」的な個を尊重し、受け入れなければならない性について覚悟を迫るような雰囲気が社会にあったワケだ。実際文明化しないタイプの集落では そ れ を「神に与えられた運命(或いは試練)」の様に若い個体に伝達した。「15になったら元服だ、わかったな」「13になったら牛をつれて交換で嫁入りだ、これで一家の長になれる良かったな(母系なので)」「16になったら最初の狩りだ、痛いがこの刺青を入れないと呪いがあるから」「お前の名前はゴッドファーザーが与えてくれたものだ、これこそ神の与えしお前の定義」、、、

何って、「仕方がなく受け入れなきゃならん定め」の様な雰囲気を共同幻想は持っていたのであって、この「配役割り振り」が明解な時には『関わり担当の使命』のような部分が明解で、あまりに無理難題があると、個が限界点までこの使命に逆らえ無いので、精神的にいきなり破綻したりした。
あるいは、感受性の強い固体は共同幻想の背景自体を感じ、二重人格とも言える様な呪術的な部分に感じ入る事もあった。

しかしですよ、文明化が進み、家族の「関わり担当者への業務伝達自由化」は、伝達する側の不安をも発生させる始末で(「親としてこれでいいのか」と悩む事が普通なのであって)、どうしても「誰にも確固たる関わり担当への定義が無い」状態でこの伝達が行われる。言ってみたらさっきの「電車から降りたくない」への納得の行く明解な答えが無い状態。そこを「関わり担当が、なりに想像して話を補完しようとする」
ここで、文明化国家特有の人格が多数を占めるようになる。
むしろ正直に全部話してもいいのであって、「子供だから」等と思うから話が混乱している。
「私はあなたを産んで、あなたが好きなもんだから寛容な方だけれど、電車のみなさんはあなたがうっとうしいぐらいなの、あんまり騒ぐとお母さんがこの人たちに白い目で見られて、それはとても辛い事でお母さん泣きそう。あなたはお母さんを苦しめたいの?」(ここまで言わなくても、かなり効果的。そしてこの心境なら表情で十分ニュアンスは彼に伝わるだろう)

ところが文明化の流れで、こうでは無い場合の心理状態が多くなる。
「私はあなたが可愛いから、たいがいのことはいいと思うけど、ちょっとウルサイ。そして、、何?何が悪いっての、子供がいるんでしょ、しょうがないじゃない、どこの子だってウルサイし、ちょっと何?文句あるの、ちゃんとやってるって私だって」(かなり極端にしてみた)、つまり従わなければならない縛りは、曖昧なので、従わせなければならない伝達項目も無く、自分ですら「何故電車から降りなきゃならないのか」が怪しいぐらいになる。「いっそどこまでも乗っていきたい」なんて文明人なら時々思う事でもある。

先進国に精神的な悩みが増えるのは自明であって、ある意味昔には「関わり担当ではなく明解な『役割』が命じられていた」のであって、この『役割』から『関わり担当』へのレボリューションは、過渡期においては「なんかしなきゃいけないの?」に曖昧さを残してしまい、『関わり担当の遣り甲斐』を『関わってナンボ』と誤解する混乱が起きる。そして『関わり担当を神の命じた運命』として社会が管理していた時代から、自分で考える時代なワケだから「関わってこそ自分」という、この関わり担当を所有している事が処理しきれずに主体感まで曖昧になり混乱する。昔は『与えられた名』だったので『ありがたい何か?』であるのだから『それは自分ではなかった』ので、関わり自体に感謝する的ななんていうのかな、、個別感があって「自分自分」とは思わなかった。


つまり、

関わり担当である自我を「自分」と思うのは先進国特有の現象だと言っていい。
実際誰も自我を自分とは実は思っていない。
「○○だと思うんだよね」(主語が無い)
「I think that it is correct」のIは一人称の記号で、「自我である私は」
両者とも「自分は」が無い。

しかし悩んでいる時の台詞は
「俺はどうしたらいいんだ」
「僕はこのままじゃだめだ」
「こんな目に合う私は」
「How it should have done?」(今度はIが無い)

なんだかえらい難しい話になってきたので、又考えて「つづく」とする。
posted by kagewari at 03:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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