2004年10月29日

自我の成り立ちについて(5)

言葉を憶える過程で起きていることは、単語を憶えるというレベルではない。

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「電車は速い(凄く)、僕は そ れ に乗るとご機嫌だ。座れると特にいい」
「お父さんは偉い、仕事(何かよくわからないので、きっと偉いこと)をしているからで、 そ ん な お父さんと遊ぶと楽しい。特にお母さんもいるといい」
「ご飯は美味しい(ハンバーグの時を標準とする)。美味しくない草は ご 飯 ではない」
「幼稚園で歌を歌うのは楽しい。何かの発表会の時の嬉しそうなお母さんが喜んでるのでかなりの快感。わたしは そ ん な 歌をうたいたい」
「お風呂のなかでおもちゃで遊ぶ事はそれは楽しいが、熱い湯にはまいる100数えないと、、」
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これらは、それぞれ「電車(その後連想『車』)」「父親」「食事」「学校」「100」等の単語の背理:暗韻となる。この連想を連ねるとロジックとなり、このイメージのセット(連想)を結ぶキーが言葉(=単語)、その連想を再展開し現実に適応する時「そんな性格」と呼ばれる。

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「結論、なんといってもスカイラインは速い。こいつのシートをレカロに変えて以来ご機嫌。そういえば、仲間にアルファに乗ってるのがいるが、なんか外車かぶれみたいに見られるのは好きじゃないし、俺はスカGだなやっぱ。そういう意味では本当の速さって国産車じゃないのか、、いやそもそも、、」
「食べる事は好きだが、できれば大皿でなんでも好きなものが食べられるのがいいなぁ。そう鍋もいいかも知れない、出来れば鍋を囲んで仲間を集めてってのもいいなあ。そう言えばこういう時に直ぐに集まる仲間ってのが、、」
「なんといっても説得力のあるプレゼンが必要なんです、君の企画はまだまだだよ。人にみせるって意識が欠けているんだと思う。そもそもプレゼンっていうのは、、」
「いえ後100回やります、まだやれます。」「意地っ張りな奴だなぁ、まあ好きなだけやれ(努力家に◎だな、、いや負けず嫌いか)」
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何が何に関わるのかは、その人のランダムな人生が関わっているのだが、実際経験する体験の幅はその人の生まれや家族の属性に随分と拘束される、だからこそアイデンティティーとは結果であって同時に必然でもある、
この両面がアイデェンティティーの実像で、変える事は出来ないが、無ければ事実を見る視点としての足場も無くなるし、同時に自身で定義しなおして見直す母体でもある。

とにもかくにも、その結果の人格は結果である。
そして、それを左右しているのは過去の「選択的決定的な偶然の記憶」で、これのアンチテーゼは「自発的な選択による戦略的な記憶」と言える。この後者の選択は「自我の自我としての自立」や「時代の流れへの適応」や「思い直しによる過去の再定義」等の思索による。
極々簡単な「造られた物だから造りなおす」というものでは無い。

こんな事はないだろうか?「子供の時に観た映画を大人になって見直す機会があり、見直してみると全く解釈が変わった」記憶にはこの現象が全て当てはまる。

だ か ら こ そ

錯誤行為による選択的擬似トラウマが必要になる。
記憶の再定義をさせないために、繰り返し同じ解釈の記憶を積み上げなければならないからだ。

ここで新たな証明が可能になる。
実は人格とは容易に変化するのであり、それを堰き止めている保守的城塞がアイデェンティティーとなる。その防壁が、内部の圧力(過剰なストレス)で不安定だとしたら?
『より強い圧力で、押し込めなければならない。』「そんな自発的な理由が見つからないので、、そんな、、こんな事は許せない!なんて酷い事を!(理由を外側に求めて攻撃や自己防衛の形を使って押し込む。この形式が「被る」)」
ここに、擬似トラウマを必然としてしまう構造が動的に証明されている。
果たして「予定された城壁を守るためか?」
或いは「その城塞は、ある『形』でなければならなかったのか?」
これは主観と客観に過ぎず同じ事だ。「形とは、保存された流動性だともいえる」。

悩み自体に普遍のキャラクターは無い。人の偶然や(自己嫌悪を離れた本人の直感。錯誤行為との違いは利害関係の有無になる。)、辛さから起因する「悩み」は、これに対する“不快感”であるのだから。「だったらどうする」という事で、「直さ(治さ)なければならない」という意味では決して無い。それはそれこそレーゾンテートルの否定になっちまうからだ。
(ここが俺が、精神的な悩みに病気というカテゴリーを持ち込む事に対する疑問になっている)


次回は前のテキストでちょっと触れた <「反動形成」「オプション(次の選択)」「オルタナ(同じ意味だろう的選択)」があって、後者に近づくほど「アイデア」と呼ばれる> について考えてみる。
posted by kagewari at 00:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月27日

自我の成り立ちについて(5)

さて再び自我創世記に話を戻してみよう。
重要なポイントは「言語」ってことになる。
コンピューターじゃないが、ロジックや図形は脳内の神経細胞の組み合わせで出来上がっている、そこでやりとりされる信号のやりとりがミクロの状態。デジタルに「00111001001」でプログラムを書かないのと同じく、人は言葉でロジックや印象を書き加える。なんといってもここで「連想」が重要な意味を持つ。

「記憶の名人」とか「ナントカ記憶法」なんてTVなんかで見たことないですか?
記憶は関連性で出来上がる、ここまでは言葉を持たない生き物と何も変わらない。
危険な事など印象に残った事は「忘れると命取り」=繰り返し関連性があったときには思い出して「回避行動」を取らなきゃならない。つまり、思い出す秘訣=記憶はこの関連性で呼び出される。
言葉の特徴は、非常に多くの属性(背景)を含めて記憶を形作る事が出来るってことです。印象に付箋用紙のメモがついていると考えてくれるといい。そこに言葉の『表題』がつていると言う訳(こいつがレッテル)。

「2.2.6事件」この言葉だけで物凄い情報量が引き出される。
俺の造語なんだが(ひょっとしてこういう言葉もあんのかも)「暗韻が踏まれている」ここが無意識にあたる。全部の字面をいちいち思い出していたら1日24時間で足りる筈も無く、進化の話じゃないが、ここはいっぱつ「フラュシュ」で印象がイメージとなって伝わり感情としてストレス信号を発し、この情報を受けて自我が発動する。「!?」
「え、なんで?」とか、

前に安全確認の発声を一生やるドライバーはいないって話をしたが、この暗韻の部分は「もやもやとして曖昧」とかではない。ここに深い記憶との関連性があって、完全に自意識のテーブルに乗るのではなく感情マターで処理されるので「あーわかってるのに、あれだよあれ、あれなんだっけ」という事は誰にでもあるだろう

つまり、この連想の構造こそ性格と呼ばれる人格の特徴であり、同時に自意識で何もかも自由自在に判断できない理由そのものです。「あの言葉で切れた」なんて話もよく耳にします。つまりある言葉が催眠術の掛け声よろしくトリガーとなり、自意識マターになるまえに感情の爆発を起こし、自我は後を追いかけるか後ろに後退する。
『既に判断が終わってしまっている』この人は誰ですか?少なくとも自意識じゃない。こういう「切れる」瞬間「何々は何々だからこう、即ち、、」なんて考えるのはスポック博士ぐらいだ、
『既に判断が終わってしまっている』そして『何らかの判断は下されている』

過電流で、スイッチとか触る前に基盤が火を噴いたようなもの。
CDプレーヤーにはスイッチが沢山だが(通常自意識はこのスイッチを触る事を操作と感じ「コントロールしているつもりの」自覚がある)、中では大騒ぎなわけで、、
既に回路は出来上がっている、
何せ人の脳は電気製品じゃないので、これは自立的に組みかえられる。「やっぱり違ってたのかな〜」とか、、

■ここ  ここ  ここ は自我の仕事です。

つまり、戦時じゃなく平時にこの修正は可能でしょ、(なので俺は心療内科などの薬の処方もアリなんだと思っている。平時を確保するのは他にも手段があり、音楽、映画、スポーツ、読書、散歩、マッサージ、居眠り、森林浴、座禅、瞑想、様々です)
想う事で、印象自体のイメージを操作しようとするタイプの考えもあるにはある。確かに効果はあるでしょう、スポーツのイメージトレーニングがそれ、
しかし思い出してください

言葉は語りかけられ、自ら語る事で憶えたのじゃないか?
そして新しい言葉を覚えた時に何か新しい考えに触れた感じがしてないですか?
暗韻として紡がれる言葉に、まるで自意識がノータッチなんて事はあり得ない。「目から鱗ですよ」この言葉はなんだろうか、
そして、人の思いはいつも右か左なんて事も無い、実際「どちらか迷う」事がどれほど多い事か。「どちらか迷う」事の方が多いぐらいだとも言える。

じゃ、悩みに関しては何故悩まないのか?「悩みでいいのかな〜」
変な言葉ですが、こういう表現でしょっちゅう起きてる筈です
「なんか考えすぎかな、まっいっかー」
精神的な悩みには、何故この可能性が無いのか?

言葉を自然に覚えていく過程で、全部の言葉が自意識のテーブルに残る事は不可能です、印象ラベルを付けられ、暗韻に沈む。そこに「何が何なのはこうじゃないのか?」等決着のつかない話を沈ませる(あるいは「忘れる」)事は通常あり得ない。だってこれ自我マターじゃないですか(自意識って言った方がいいかな〜)?
これを無意識へ送り暗韻とする事を『抑圧』と呼ぶ。
posted by kagewari at 03:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月26日

自我の成り立ちについて(4)

しかし「自分のある人」等と言うようにまさか自称自分である語る自分=自我が、自分を自分と呼ばないのは無理があるだろう。まさか自我君とか名乗るワケにもいかん。

俺は実際二重本名があったのでここは好都合だった、kagewariの名は自我っぽい俺的な部分を自分自身で認知するのに格好のモデルで、これに近いものがネットの世界にある。『ハンドルネーム』正に自称自分。

何が言いたいのかって、自我には「おっ本人じゃねーなこれ、自我の勝手な思い入れだな、本人スマン」な一面がある。
つまり「こんな俺で自分スマンな」な感じ、

鏡を見てみるといい、この人はそもそもどんな人生が相応しいのか?
それに自信を持って答えられる自我がどれだけいるだろう。
つまり、自我はこの人(本人=命)を預かり「関わり担当且つ、現実を判断するヘッドクォータ」なワケで、この人(本人)の命運はこの自我にかかっている。

この逆もある。例えば陸上、そして野球、つまりスポーツだ。
「やれることはやったです、走ってよ〜俺の足」
「ここはカーブと決めた、まっすぐと同じ腕の振りで頼むよ肩の人」
なんてゆーかあのボート競技でメガホン持ってる人居るでしょ、なんていうのか呼び名は知らないが、あのメガホン持ってるのが自我。
正に『関わり担当にして決断者』

自我の迷いとか不安ってのは、この分離感というか自立間=1人称感が喪失してしまう事であって、自我と本人を癒着させてしまうのが「自己嫌悪」というキーになる。これが何故キーになるのかといえば、「自分で無意識に自分を否定的に見ているロジックを改めて無意識に抑圧する」(言葉が壊れているが勘弁してくれ)これつまりね、自分に対して感情的になってるって事。
「自分に対して感情的」
これは何か?
過干渉を思い出してもらいたい、何にでも口を出し注文をつける虐待のひとつ。
「自分に対して感情的」
「自己過干渉」
「自己中心的(「我侭な性格の俗称」ではなく心理学的な)」
「事実確認は外部ではなく内部(記憶)へ」
なんとなく字面でわかってもらえると思う、自我と本人の癒着。
こうなると『自己』という構造がアンバランスになる。

つまり、ボートをこぐ諸君とメガホンが一体になっては競技にならない、ボート上では激しい罵りあいが起きているのと同じ、これじゃボートは前に進まない、前に進もうとしているのは誰か?これが不明確になるからだ。同時に何故ボートを漕がなきゃならんのかという目的も怪しくなる。

本人と自我が、共存共栄するような、、なんていうか尊重しあう関係になってこそボートは前に進む。競技が始りいざレースって時に「何故前へ向うのか」なぞ疑うような隙間は本来無い。レーゾンテートルとは考えるものではなく、「川を前に争って進む船は、ボート競技をしている」というようなモノで、生存意義というよりか、生きた証がレーゾンテートルの真髄じゃないのだろうか。
posted by kagewari at 18:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月25日

自我の成り立ちについて(3)

さて、この『関わり担当の独自性』ってのが、極々当たり前であることが、自我創生期を考える事でよーくわかる。

あるヒト科の若い個体に向って、この個体の生存の全てを握る人物が自分を指差しながら「ママママ、ママ、ママ」個体を指差して「○○君、ねわかるでしょ=っ!!」等と始るのであって、そりゃ若い個体としても「自分は、、○○君なのか、、」と思ってしまうワケであって、
そしてその後「○○君の素性(ほとんどドラマのシナリオを貰った時の背景説明を聞く役者の心境)はね、お父さん、お父さん、○○君、○○君!!!、○○君!お父さん、お父さん、(笑顔)、そしてお婆さん、お婆さんよ○○君ってば!○○君!」(かなり極端に表現してみた)と始るのであって、、「な〜るほど、何々君はこういう家族構成の人物か」と、、自我が始る。

なので、幼児の話の主要は質問だ。
「お婆さん、お婆さんって誰、ママのママ?」「お父さんは?何処に行った?」「○○君も行く、何故ダメだ?」

なんて言えばいいのか、、(汗
幼児が泣く時を思い出してほしい。彼等は「電車に乗るまだ乗る」等の期待が壊されると泣くのだが、この背景は「○○君のママは優しく、○○君の好きな事にはだいたい無条件に答える、それが○○君だよね」というこの役の設定(しかもこれは教わったもので、○○君なる呼び名で呼ばれる人物が勝手に考えたのでは無い)が壊された事に憤っている(乃至「騙された」「いじめだ」と判断)のであって、「これは違うんです」と説明を受けると「何故?」となり、納得の行く説明があると、これをオウム返しなどしながら「キャラの特性だ」と一文加えていく。そして「電車の運転手になる」等と言い始める。

このように「関わり担当」は、自分の設定を修正しつつ同時にそれを形造っていく。

この内容を俯瞰で見てみよう、、、
かなり異様な光景で、「第一このヒト科の個体は何々君とか、、そういうものじゃないでしょう」と
 かなり、、ななんというか引く話で、

■これに気が付いていたので、昔は違った。

「子供は親乃至家のもの」という流れがあって、高所から躾が行われたり、部下である長男や長女或いは乳母や祖母等の軍曹格の人物が鍛えるように「今日からお前は○○だ、呼び名が無いと困るからな」的な個を尊重し、受け入れなければならない性について覚悟を迫るような雰囲気が社会にあったワケだ。実際文明化しないタイプの集落では そ れ を「神に与えられた運命(或いは試練)」の様に若い個体に伝達した。「15になったら元服だ、わかったな」「13になったら牛をつれて交換で嫁入りだ、これで一家の長になれる良かったな(母系なので)」「16になったら最初の狩りだ、痛いがこの刺青を入れないと呪いがあるから」「お前の名前はゴッドファーザーが与えてくれたものだ、これこそ神の与えしお前の定義」、、、

何って、「仕方がなく受け入れなきゃならん定め」の様な雰囲気を共同幻想は持っていたのであって、この「配役割り振り」が明解な時には『関わり担当の使命』のような部分が明解で、あまりに無理難題があると、個が限界点までこの使命に逆らえ無いので、精神的にいきなり破綻したりした。
あるいは、感受性の強い固体は共同幻想の背景自体を感じ、二重人格とも言える様な呪術的な部分に感じ入る事もあった。

しかしですよ、文明化が進み、家族の「関わり担当者への業務伝達自由化」は、伝達する側の不安をも発生させる始末で(「親としてこれでいいのか」と悩む事が普通なのであって)、どうしても「誰にも確固たる関わり担当への定義が無い」状態でこの伝達が行われる。言ってみたらさっきの「電車から降りたくない」への納得の行く明解な答えが無い状態。そこを「関わり担当が、なりに想像して話を補完しようとする」
ここで、文明化国家特有の人格が多数を占めるようになる。
むしろ正直に全部話してもいいのであって、「子供だから」等と思うから話が混乱している。
「私はあなたを産んで、あなたが好きなもんだから寛容な方だけれど、電車のみなさんはあなたがうっとうしいぐらいなの、あんまり騒ぐとお母さんがこの人たちに白い目で見られて、それはとても辛い事でお母さん泣きそう。あなたはお母さんを苦しめたいの?」(ここまで言わなくても、かなり効果的。そしてこの心境なら表情で十分ニュアンスは彼に伝わるだろう)

ところが文明化の流れで、こうでは無い場合の心理状態が多くなる。
「私はあなたが可愛いから、たいがいのことはいいと思うけど、ちょっとウルサイ。そして、、何?何が悪いっての、子供がいるんでしょ、しょうがないじゃない、どこの子だってウルサイし、ちょっと何?文句あるの、ちゃんとやってるって私だって」(かなり極端にしてみた)、つまり従わなければならない縛りは、曖昧なので、従わせなければならない伝達項目も無く、自分ですら「何故電車から降りなきゃならないのか」が怪しいぐらいになる。「いっそどこまでも乗っていきたい」なんて文明人なら時々思う事でもある。

先進国に精神的な悩みが増えるのは自明であって、ある意味昔には「関わり担当ではなく明解な『役割』が命じられていた」のであって、この『役割』から『関わり担当』へのレボリューションは、過渡期においては「なんかしなきゃいけないの?」に曖昧さを残してしまい、『関わり担当の遣り甲斐』を『関わってナンボ』と誤解する混乱が起きる。そして『関わり担当を神の命じた運命』として社会が管理していた時代から、自分で考える時代なワケだから「関わってこそ自分」という、この関わり担当を所有している事が処理しきれずに主体感まで曖昧になり混乱する。昔は『与えられた名』だったので『ありがたい何か?』であるのだから『それは自分ではなかった』ので、関わり自体に感謝する的ななんていうのかな、、個別感があって「自分自分」とは思わなかった。


つまり、

関わり担当である自我を「自分」と思うのは先進国特有の現象だと言っていい。
実際誰も自我を自分とは実は思っていない。
「○○だと思うんだよね」(主語が無い)
「I think that it is correct」のIは一人称の記号で、「自我である私は」
両者とも「自分は」が無い。

しかし悩んでいる時の台詞は
「俺はどうしたらいいんだ」
「僕はこのままじゃだめだ」
「こんな目に合う私は」
「How it should have done?」(今度はIが無い)

なんだかえらい難しい話になってきたので、又考えて「つづく」とする。
posted by kagewari at 03:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月24日

自我の成り立ちについて(2)

例えば、非常に下世話な話になるが、異性同士の恋愛感情についてだが「誰さんに好意を持った私は、なんとかこの人物を誘う事を決断した」この決断した人物は『関わり担当』に違いない。

え?

これが(好意という感情に急き立てられて)「私は誘う、誰?人物探せ、誰だ?追え」ではない。実際恋愛感情を触発したのは相手の異性というのが恋愛なるものだろうし(恋愛論はいつか『心理学テキスト』に書きます)、この相手の異性に関心を持っている私は、異性との『関係』に触発されているのであって、「全く関係無いところで触発はされない」。

言葉としてかなり壊れているので、再構築してみる。

例えば、アイドルタレントや映画俳優に好意を触発された場合「全く関係無いところ」に見えるが、そうではない。“私”は、この人物との関係を想像して触発されているのであって、きっかけはドラマなどの人物への感情移入をきっかけにする。それだけではなく同性のタレントのファンになる心理があるが、この場合も、この人物が映画やスポーツや音楽界などで活躍(関わった結果)していたり、映画でいえばその人物と異性との関係に同性の方から感情移入しているのであって、「関わり担当の憧れ」そのものともいえる。

かなりの人が、話の意味がまったくわからない状態だと思うのだが、自我の話はこういった『矛盾の証明』が必要になるので、話自体が壊れていないとうまく説明できない部分があって、、、う〜ん。。

個が個として存立しているなら、この関係性への自分の成果への強い関心は、「○○関係が相応しい私」として実存しているというより、「私は○○関係に相応しいのでは」と思ったのであって、、、
ある心理学の世界で使われているどうにもしょうがない用語のひとつ「自己実現」を思い出す。実現していないのだとしたら「今の自分は誰だ?」って事で、本末転倒な話しになってしまう、そこでこういった学問は後付けで「セルフイメージ」って何だそれ?な言葉を引き合いにだすんだけれど、セルフにイメージもクソも自分の事でしょそれ。普遍な実存する個はどうしたらいいのか?
この人は 偽者 な ん で す か = !

考えなきゃいけないのは、この「主体感の混乱」だと思っていい。
posted by kagewari at 00:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月23日

自我の成り立ちについて考える。

自我を定義する事自体がこれまた難しいので、ともかく自我の成り立ちから話を進めよう。コミュニケーションの手段は各生物で様々だけれど、このコミュニケーションや相互関係(多種や自然環境との関係も含む)を通して種としてのイメージがある。「この生き物は植物で光合成をして、繁殖に虫の協力を得ている」「この生物は捕食獣で、小動物の分布に応じるため広い縄張りを持つ」この種としてのイメージを無視して固体を観察する事はあり得ないし、むしろこの種としてのイメージが実存感が強い。

ここを繋いでいるのがコミュニケーションで、深く種の実存に関わっている。

ここ、ここ。
コミュニケーションは「深く『種』の実存に関わっている」

これ何か?
コミュニケーションにはそれ自体に個別のアイデェンティティーがある。
『個体を離れて』
ここが難しい、小動物を食べる事で地球上の種としての生存総数は定義される。つまり「関わり」は個体とその実存(言い換えると個単体を切り離して観察す人がいない理由は、そこに実存が無いからで、、)を決定している。

ので、

コミュニケーションの手段として言語ロジックを使う人類は、「関わり担当」の独自性が強い。何故なら関わる部分の蓄積が「関わり担当としての体験」になるからで、このロジックの数が又半端じゃなく、組織的、論理的にまとめていかないと整理がつかない。

「関わり担当」の独自性の反対は、「関わり担当と個体の一致性」だから、人の自我ってのは「自分はかく在り」と宣言する独自の(極端に言えば個から独立した)機関を持っている。この独自機関を『自我』と呼ぶ。
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posted by kagewari at 01:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

情報について。

今やアメリカの大統領選を見る目も「かなり面白い」の趣で、
「昔なら極秘では?」な話もチラホラ、
情報は公開した方が(ひょっとすると大統領選も、一見ネガティブ情報の意図的流出が反対に支持率に繋がる時代かも、、)何かと話が早い。

反対に考えると、昔は随分と必要も無い秘密が沢山あったのかも知れない。誤解される心配がある時には(あるいは説明する自身が無いとか、)口を慎むって文化もあったせいだろう。とは言え、現代は情報の量は凄く多くてネットに自分から情報を発信できることもできるので、話すほうも聞くほうも話の内容を確認するのは随分と簡単になった。「口を慎む」って時のリスクが減ってるので(間違えたら直せばいいのであって)、やはり情報は公開した方が話しが早い

昔の学校には「予習復習」なんて文化があった、なんだか随分マヌケな言葉なんだが、既に知ってる情報を公開するなんざ、この復習に近いものがある。「そうなんですよ、実は」って話してるさなかに「何か思いつく」とか、
カウンセリングにもそういった傾向があるんだけれども、とにかく自我には早合点な傾向があるので(効率も能力の内になっっちゃってるし)これは「悩みがあるから」とかに関係なく適応される話で、「自分自身へも情報は公開した方が話が早い」って事になる。

話が早いってのも早合点な傾向か、、
posted by kagewari at 00:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月19日

「決定的な体験」の補足と、脅迫(強迫)の精神分析的解釈

悩みを抱える自我は、社会や人間関係の接点でストレスを感じ、それに反応する形で矛盾を抱えた(解決の糸口の無い)悩みに陥っていると考えられる。
悩みの内容は「反応=被る」という流れにあり「自分は何をしたか」という主体的な自分の関与を(結果以外に)背景にする事は無い。

脅迫(強迫よりイメージは脅迫に近い)神経症等と語られるように、自我自体が脅迫的である(自由ではなく、どうしてもある選択や思考を迫られている)のに「自分は何をしたか」という主体的な行動は話に出の中心にならない。
このことは、一見行為として不可能であるように思える(自分自身が自由にならない事がある筈なのに、不快な現象自体には自分自身の関与が全く無い事になっている)、しかしこの構造は「ある見方」によって可能で、これが「決定的な体験」の背景にもなる。

注意深く話を進めてみよう。

自分自身を内省的に見るときには、人は自分でありながら客観になり「俺はいいのかな、これで」なんていう感じで独り言的見方をする事が容易で、又、「世の中はおかしじゃないか!」等と(超自我ではない)批判的である時には自分自身は主観だがよって立つ立場が第3者的客観者となる。
自分の事を「この人はなんて可哀想なんだ」「こんなに頑張ってるこの人になんて仕打ちだ」と思う事も、取り立てておかしな現象ではない。この時自我は主体的だが、よって立つ立場は(共同幻想的)世間の常識の側であり、容易に周辺人物の代表であるかのように思考する事もありえる。

自我の立場には、主観と客観という簡単なところで区分けされない複数のバリエーションがあって、『心理学』などと言う言葉があるのは、『自分を語る学』というよりその方がピタッとくると相対的に思われているからで、『自我』というものの主体性が「僕のレーゾンテートルは何?」なんて事を思いつくほど自分自身と一体感がないためで、この理由はもっぱら自我が文化や家族文明、言語による「外的刺激」で発現し成長するからで、全て主体的に「自分が自分が、俺が俺が、私が私が」で成立していないからだ。(この世の誰とも会話が出来ない自我は無い)
何せ自我は他者や外界との「インターフェイス」として存在しているので「自分からちょっと浮いた存在」に他ならない。「僕のレーゾンテートルは何?」そりゃそうだ、果たして僕(自我)は自分か?という問いかけは、自我の「浮き加減への疑問」であって、そうそうおかしな話じゃない。

つまり、自我は容易に自分を離れて世間の代表者(あくまで代表で「偉い」という意味はない)の位置で物を考える事も容易で、「新橋で聞きました」なんて感じでマイクを向けられれば「年金問題が先ず、、」と容易にそのスタンスになれる。

「超自我と自意識、無意識の関係が不安定だ」。結果、相互に干渉するかの様に脅迫(強迫)的傾向にある。(干渉される側から考えると、自分自身の中でありながら「被る」と感じられるので)
この状態の自我にとって、さっき説明した複数の立場や見方は、極端な形に表れやすい事がなんとなくわかってもらえないだろうか?
『自我内の干渉者(自分の無意識や超自我)』
自意識より前意識的なロジックや無意識が主体感の上位を占めると、自意識は自我全体が感じるストレスの「自分は被害者である」という主体性が『自意識の最も頻繁に感じる主体性』になり、発想の軸から「主体的(攻撃的)に考える」が後退する。

そこで

「なぜこうなんだ」「どうしてこういう事になったのか」「あの人は何を考えているのか」、、という悩みの基本構造に思考は限定される。
「どうすりゃいいのか」「どうすれば打開できるのか」「あの人にこうしてみようか」これは悩みでは無い。
なので、行為が挫折した後の感覚も、前者は「やっぱり意味がない」となり、後者は「何を間違えたのか、修正しよう」となる。自己嫌悪VS反省そのものだ。自己嫌悪とは「主体感(意識)を『被る』という立場に脅迫し、固着させる事だ」と考えてもいい。
■「自意識にとっては、巻き込まれている」に違いが無い。

次回は自我の存在意義、そのものについて考えてみよう。
posted by kagewari at 22:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月17日

「決定的な体験」にまつわる複数の可能性(4)

自我と無意識のアンバランスな抑圧を維持するため、山のような錯誤行為による擬似トラウマは『必要とされている』。

再び自己嫌悪の成り立ちを考えたい。
わかりやすくするためにあえて乱暴に話をすすめる。
超自我は、親のイメージの化身で、他人(客観)
自我は人格全体を意味するともいえるが、自意識を中心とするいつでも覚醒可能(思い出したり、考えたりできる全体)なロジック(主観)
無意識は『主観登場以前からの、知的な非言語意識(乃至記憶)』。

■自我から見ると無意識は自分を取り巻く環境に錯覚され、超自我は自分を拘束する他人(客観)に錯覚される。しかしそれは全て『自分』である。

そして、この錯覚は投影にそのままの形で影響する。投影ってのは簡単に言えばシュミレーション。「こうじゃないのかな〜」「お店がこうだったらどうしよっかな〜」などとする想像、実際こいつが映画なんかを面白くさせる感情移入のプロセスでもあるのだけれど、超自我・自意識・無意識の関連に強い矛盾があると
『自分自身とか思えないほど他人っぽい=投影されてる自覚が起きない=自分の鏡像を他者の実存と完全に取り違えたりする(妙に心象風景や、動機まで詳しい部分まで「聞いてきたかのように」他人の印象を決め付けてしまっている)』

上司の言葉に、極端な反応をしたり
友人に脅迫的に迫られている気がしたり
周りの雰囲気がとてもストレスだったり
権威者に認めてもらうために、自分の道徳心を容易に超えたり
友人関係などの小世界が、まるで家族関係のように役割性をもったり
無意識が自意識を刺激し続けている不快感を大衆から感じてしまったり
道徳的な過激集団が救いに見えたり

この投影される「自我構造」に基づいて擬似トラウマが起きる。言い換えると錯誤行為は無意識のロジックの投影現象で、『自意識との親和性が少なければ少ないほど外に投影されやすい』。

「いじめに悩む少年が、ついうっかり、繁華街を歩いてしまう」「満員電車が苦手なのに『ついうっかりいつも遅刻して』極満員電車で通勤している」「食事の時に緊張するのに、ついうっかり友達を自分から外食に誘ってしまう」「友人達が話しているたわいもない話が、最悪の悪口に聞こえる」「家族の買い物動向が、意味ありげに見える」
これらは、少なからず誰にでもあることだが、擬似トラウマの特徴は、『総じて不快だ』というとこに特徴があって、「俺ってバカだな〜」で済むレべルを超えると、その結果や体験から『決定的な体験をした』と誤解をされる。些細な事が『決定的な不快記憶』にすりかわってしまう原因は、抑圧構造(超自我、自意識、無意識の区分け)が不安定にならないように戒める代表例(まるで宗教の教義専門用語)に利用するためで、意識的では無く(強い超自我に自意識が拘束されている気分「被る」によって)「酷い目にあっている」と認定される。

多かれ少なかれ社会と関わる時に「いやぁ俺が出すぎた事をしたかな」という自分の関与を疑う気持ちが残るものだが、擬似トラウマは「100%自分は関係無い=誰かの意図的な不快体験だ」と認知されている。複数の人間が関わっているのに、こういう認識(「100%自分は関係無い」)はあり得ないのであって、実際にこういった被害がマジに合ったときには戦いが選択される、「不快記憶ではなく大喧嘩の記憶になっいるの筈なのに、擬似トラウマは「被る」による認定なので、もっぱらその話は受身の構造になっていて、話のオチが喧嘩にならない。」

結果、そのエピソードを聞いた友人の反応は「なんで〜」になる。
その状況を回避する行動を「なんで」とれなかったのか?(辞める、逃げる、戦う)
この話が続くと二次的ストレスとなり、「相手の肩を持つのか、お前もあいつらの仲間か」ととんでもない事実誤認となり、擬似トラウマが選択的(擬似トラウマ話を何故か必死に守る)である事を証明しているのだが、ここでも本人はそれ(錯誤行為で選択してしまっていること)に気が付かない。

事件に巻き込まれてしまったり、ほんとうに被害にあってしまう「不注意」が「不注意ではなく錯誤行為である」としたら、選択される次の体験は不快である事が既に予定されていることになり、厭世感に包まれてしまう。

俺は、これが鬱の正体ではないかと思っている。

「世の中何があるのかわからない、いいことも悪い事もあるだろさ」「人の考えは様々でいろんな事情があるんだろう」「不快な事からは、とっとと逃げた方がいい」「『嫌な予感』は避けたほうがいい」あまりにも一般的だが、非常に重要な事で、気楽になるきっかけは、一時的には錯誤行為を自由にさせない事で、積極的に楽に楽〜にを選択する事が重要で、
何せ脅迫性(超自我と自意識、無意識が不安定)が強いのだから「自分から進んで厳しく辛い事(或いは努力)」というキーワードの連想で「勘違いで不快選択」を錯覚してしまう事を予測する事もできる。
「怠け者になろう」ぐらいでちょうどいい。
posted by kagewari at 13:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月15日

「決定的な体験」にまつわる複数の可能性の補足というとこから先日の集団自殺を考える。

報道は徐々に「カルトか?」な雰囲気になっている。
つまり、自殺をするにあたって参加者を募り「本気の人(首謀者の主婦の言葉)」と語る事は既に「時限で共同幻想を完成させようとしている」のであって、唯の一人も自殺する『意志』の無い証明だと言える。
首謀者の主婦は、17歳の家出少年と関係し彼もまた他の集団自殺についていき、主婦が「帰ってきなさい」と諭したのだが、集団自殺で死に至っている。(首謀者の主婦は、この少年の葬儀に出席)

大問題だが、「本気の人だよね」の認定は、集団による共同幻想で補完されていて、個人の意志では無い。
自分には自殺というトラウマが相応しいと、前提が出来あがってしまい、これに(まるで錯誤行為が続くように)追随する現実を後から完遂しようとしている。
「自分は本気の人だ」
本来自我とは、自分の意思の結果を記憶として積み上げ、「自分」と認定する。これが脅迫によると強い不快感を伴い、又擬似トラウマの時には「自分の嫌な所」として認定されたり「嫌な記憶」として自分を語る上で外せなくなる。ところが擬似トラウマの特徴は、無意識に求められているところであり、抑圧が限界に来て適当な不快行動(擬似トラウマ)を呼び出せなくなると、無意識のロジックは自意識に近くなるので(抑圧が壊れかける)「〜たい」として欲望と同じ部分に自我に認識される。この時自意識と無意識は基本的に矛盾しているので、反動形成(無意識の思惑と違ったエキセントリックな想像を認識させる事でバランスをとる事)によって欲望化が行われる。
(今後話す予定だが、この無意識と自意識のやりとりには「反動形成」「オプション(次の選択)」「オルタナ(同じ意味だろう的選択)」があって、後者に近づくほど「アイデア」と呼ばれる)

抑圧を安定させる擬似トラウマを、結果的に自意識に選択させてしまう。
この部分は非常に誤解されやすいので、説明もとても難しい。
「自分は自殺者だ」という前提で、首謀者の主婦は「何もいいことがないのに」と語っているのであり、
「何もいいことがない」として、世界を批判している事に気が付いていない。
人生の不確定要素は、他人や自然時代社会、、、様々で、「決まっている」のだとしたら、それは自分がそう選択しているのと同義で、これは「擬似トラウマ禍」の原因を外(社会)に振り向けるための理由に他ならない。
『擬似トラウマは必要とされている』
社会を否定する理由として、

この理由がちゃんとある人が「本気の人」となる。完全に主客が逆転している。
「何もいいことが無い」を決まっていると予見する事は不可能で、そう無意識に脅迫されているのであって、「いい事がない」のでは無い。「いい事がない」になってしまっているのであって、これは自らの無意識の問題になる。「擬似トラウマ」が、世界の自分への仕打ちと誤解されている。

非常にセンシティブな事なのだが、不快な記憶には同じ事実でも考え方や解釈で事実関係は変わる要素があり、不快な記憶が無意識の錯誤行為で選ばれてるとしたら、自意識の経験には「微細な過失が非常に多く含まれていて(本人にはそれに全く気が付かない)」と言えて、その一部は「道徳的な批判として他者に振り向けられる」、構造は「自己嫌悪」であり、「自己嫌悪」と「被る(自己嫌悪に不可欠のロジック)」の関係が一体化し「世界に嫌悪される自分=当然自分を自意識では嫌悪できないので=いい事などなく酷い目にあう(嫌悪されているから)」この要素が、社会を巻き込んで空想されてしまう。
(「被る」という要素が自意識の主客を容易に転倒させる)

なんと言えばいのだろうか、「こころの構造を、現実に(他者を使い)展開している」に近い、実力行使で抑圧を守るために。
重要なポイントは(感情を伴う事実認知は)錯誤行為によって「思わされている」のであって、「素の状態の人」は特に何を思うでなし、のんびりしているという事だと思う。
「完全に被害だこりゃ」な時には戦いが選択されるからだ、

とにかく、集団自殺をめぐる報道は変化するだろう、これにヒューマニスト役(視聴率目当ての、いい人ジャンルのコメンテーター)が「辛い事が、、」等とコメントするとむしろそのムーブメントを煽ってしまう。
posted by kagewari at 23:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照

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