2004年09月15日

心理学における共同幻想と超自我の関係

つまるところ常識や道徳とか倫理なんてものは、普遍的まで辻褄があっていなくても、擬似的にでも「これは定番(あのマヌケな新興宗教の「定説なんですねぇ」はあながちはずれじゃなかったので笑えた)だろ」な概念を一人で考えるのはスゲー負担なので(まさか人類全員が、人文学系の教授張りに勉強するワケにもいかず。実際「保守思想」にあるように、保守的なアイデアは、文面として残る事無く慣習として継続するので、論理的に解釈されていないからこそ「保守」である。新しいアイデア=進歩的だから、その時点でアンチコンサバ、、)通常、
@「道徳的や倫理的分野のロジックは受け売りで、内容を個人的に精査することは無い」

つまり共同幻想として成立している概念を「キャッチ」という論法で自我に(超自我として)取り込む(言語化させる)って仕組みになっている。
これが小学生の殺人質問パラドックス(これに気が付いたのは、ビートたけし)、「何故人を殺してはいけないのか」という設問の矛盾を利用した話の構成要件になってる。

そのこころは、「理由を考えて、なるほどそうだ」という過程を経ないで認識されるジャンルの話に、それを後から「何で?」とやっても即答できないからといって「理由が無い」と断定するのは「ある種のヒッカケ(パラドックス)」であって、設問自体に実は意味が無い。
セオリーの理由を尋ねるような話。
セオリーの真偽を確認するなら、自分の論旨を投げかけなければならず(小学生の設問で言うなら、彼は「こうこうこういう理由で人を殺してもいい筈だ、如何?」でなければならない)、そうではないなら、その設問は単なる「何故セオリーか?」になる。ところがセオリーとはセオリーだからで、セオリーに理由は無い。「何故流行っているのか?」はアリだが「多数売れているからといって流行っていると何故言うのか?」と言っても質問自体が壊れていることになる。多数売れている現象を「流行っている」と言うからだ。

これが「キャッチコピー」。

共同幻想は、このコピーの宝庫で、最近のキーワードの中でわかりやすく解釈するなら、HPソフトなんかにおまけでついてる『素材集(雛形)』みたいなもん

ここで重要な事に気が付く、素材集に頼る(ちょっと表現がおかしいが、現象は同じだから)と、作品は似たり寄ったりの結果になる。これを『共同幻想によって演出された近似性=普通』となる、逆から言えば、これが『普通の定義』、
素材集など無視して自分で何でも作れば(これはどえらい非効率なので、みんなで、んなことしたら社会がもたない)オリジナル度は高いが、完成度は相当実力が無いと保障できない、だからこういう行為を通常「無謀」という。

これに対するオリジナル派の最も適当な反論は「オリジナルに意味があるのであって、完成度などさして重要ではない」になるが、作品の完成度の効率を尊重し「普通の選択をおこなう派」としては受け入れがたい話であり「それは君の自己満足だ」となる。こんな会話が歴史の中で延々と行われてきた、

普通派にもウケのいい=『キャッチなオリジナルは』創作と呼ばれその一部は芸術(受け入れられるのではなく、ひな壇に上げられた場合)と呼ばれる。
どっちがいいとかは、これまるで関係なし、

共存関係を築く上でオリジナル派が「これこそ普遍的」などと、共同幻想派の、よって立つ正しさらしさ=リアリティーを、脅かしたり批判しなければ、「出来損ないか」と穏便に受け入れられる。逆説になるが、オリジナル派にとって「共同幻想普通派」に認定されたら、「これオリジナル?」になるので、皮肉にもその行為は、自分のアイデアのオリジナル性への自殺行為になる。

変な話でしょ、変だよね、
でもそうなんだからしょうがないってんだ、
つまり自分のオリジナルアイデアに正しさらしさ(=リアリティー)を求めた時点で、「正しいと思った自発的根拠は壊れる」なぜなら「正しいと思う自発的認識と、正しいらしさという予定されるそれらしら=推定は相容れない概念であり、『断定的な賭け』と『推定される予定』は水と油だから」だ。

妙な話でしょ、妙だよね、
これ、実は共通のテーブルの話じゃないから。無理くり共通のテーブルに乗せると上記のように「何言ってんだかわからん話になる」。

どうして「共通のテーブル(=同じフェイズ)じゃないのか?その違いは?」

共同幻想は超自我的なアイデアで、その機能の仕方は「オートマチック(無意識的)」
オリジナルアイデアは、自我的なもので、その機能の仕方は「確信犯的で、自覚的」
前者には気合も自覚もあまり必要無いが(仕組みが脅迫(強迫)的ともいえるので)、後者には気合や自覚が必要になる。

なんとなくわかってもらえるだろうか?
『反省』という概念は、後者のテーブルに属し、『自己嫌悪』という概念は前者に属する。

うんじゃ、
『何故自己嫌悪がキャッチであると判断されるのか?』

つづく
posted by kagewari at 08:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月13日

『躾(しつけ)』の心理学的解釈

つまり「フロイドいうとこの超自我の話」、
殊更「超自我」ってモノがあるのではなく、前意識的(しょっちゅう出張ってこないの意)な自我理念(ほとんど憲法)のことで、大体何かの事情で「超自我のお出まし」な時には、それは『道徳や倫理、常識』として自分自身に認知される。

それ(超自我)自体が道徳であるのじゃなく、道徳的な意識の一群が超自我なワケだ、(「人類全員が道徳家」な筈ないから)
『道徳的』の『的』というリアリティー(=もっともらしさ)は何を意味するのかっていうと、自 分 自 身 の 体 験 から 考 えた の では 無い「いいことと悪い事の分別や、」「なんとなく『そうしている』うちに習い性となった自分なりの生存の手口」だってとこで、ポイントは『自分で考えていない』ってとこ

物心ついた=自我がおっぱじまった時から、既に「自分のキャラ」として定着し、このキャラを恣意的に操作する事を『躾(しつけ)』と呼ぶ、

まだ自立的な意識がある前に、なんで又この「脅迫的生きる道」が勝手に生成されるのか?答えは簡単で、言葉(自我)によるコミュニケーションをしない自然界の生き物だって「食べていいもの悪いものや、群れのルール」を必ず承知している、人間にしても群れへ適応する上では、言語化以前から問題なくこの部分の学習をしているのであり、原始的脳の話じゃないが、知性は言語以前から動き出している証明で、自我は言語化以降の代物なので、ちょっとパラドックなのだが、この「言語化以前の自分の知性は言語化出来ない」=前意識的である。

なので、大人になるにつれ、四文字熟語なんかを知って「あ!これだ、これだったんだ。俺の前意識のいいたそうなことはわぁ!」と後付け(?)で言語化されると、常識となる。(通常「それが常識」という話をしている人物が、どこか得意げに見えるのは、この前意識的超自我の言語化成功記念のような追体験的快感があるためで、話し手は若干興奮する)
当然この「これだったんだ」の過程にもっとも深く関与する可能性のある人物は「親」であり、望むと望まざるに関わらず、多大な影響を与える。「それはねこういうことなんだよ」と語りかける絶対的権威(これは幼児ならではの誤解)者の発言の影響力は多大だ。
「あるいは、なんでわからないんだ!」と引っ叩かれたり(これの意味は、どっちにしようか迷っているふたつ以上の意見の、片方に暴力で加勢する事になるので、まったく効果がないのではないが、引っ叩かれる当事者がまるで考えもしない意見で「加勢したつもり」でやると単なる空回り暴力に過ぎないので、ジェネレーションギャプ等がある場合非常にリスクは高い。度が過ぎると殴られた当事者は考えてもいない意見を捏造し、「こうしろといった」として脅迫的な人格傾向の形成に繋がる)

ポイントは「何処の馬の骨ともわからない年長者を、自分の血縁上の親という縁だけで、多感な一時期絶対的権威と誤解」するとこで、これの偏りを修正する現象を『反抗期』と呼ぶ。子供にとって仮想上(友人を通じて他人の家庭の情報屋を得たり、テレビドラマ等を見た結果)「自分は絶対的権威を信じ込まされていた」と感じるためで、反抗期のきっかけは幻滅や裏切りとして認知される。
EX.男の子が突然自分の母親を「おばさん」とか「デブ」とか言い出すのは、それ以前は「凄く美人で最高の女性」と誤解していた事を修正しようとしているからで、自我内のバランスを取るために「凄く美人で最高の女性」のカウンターとして選択される。
 女の子の「お父さんの後はお風呂が汚い」というのも同じ原理。

ここまでの話で、この超自我がどえらいいいかげんな環境で成立してしまうのかが、おわかり頂けると思う。これを自我が力ずくで制圧するツールのひとつが「習い事」や「哲学」「宗教」「オカルト」になる、

言い換えると、反抗期が現実と誇大妄想を擦り合わせるチャンスであり、これを逃がすと、超自我は自我に対して脅迫的な影響力を強く残し「ストレス」となる(自我への干渉の頻度が高いので)。自我は超自我には(「習い事」や「哲学」「宗教」「オカルト」等で対抗するしかないが、この文化的な好奇心を疎外する強制力が親の実力行使なんかで起きると、その反抗も難しいものになる)簡単に逆らえ無いので、この未修正の超自我的理想をなんとか実現しようと『汗をかく』=本人には「苦しんでいる」「努力している」等と認知される。

未修正の超自我は誇大妄想的なテーマを多く含む、これを『エディプスコンプレックス』と呼ぶ。(この強引な説明に反論多だと思うが、ここはあくまでも現象面で考えてくれ)
ここまでの話で誤解が非常に多く発生していると思うので、補足的に説明するけれど、「この草は食べていい」とか「この匂いは仲間」とかの元々の野性的知性は存在は強迫的でもストレスフルでは無く「あ!これだ、これだったんだ。俺の前意識のいいたそうなことはわぁ!」との『 後 付け =キャッチ』された部分が誇大な脅迫性を持つのであって、表現はちょっとおかしい事を知りつつもあえて言うなら「この脅迫(強迫)は人為的だ」となる。

人為的なものは自我の名において解決可能なので、
「文化的自立が効果的である」
しかし、宗教は誇大妄想まんまのキャッチで選ばれる事が多く(なのでカルトが選択されやすい)誇大妄想の修正どころか「実現への野望」になる危険性も高い。

超自我の監視外である、スポーツ(ルールが超自我より権威をもつため)や芸術は超自我のジレンマによる苦痛や反発がほとんど発生しないので「アリ」なんだが、道徳的規制でリミッターがかかると力は制約される。(フロイド的に言えば『昇華』)

話はずーーっと戻るのだが、
この上記『「こうしろといった」として脅迫的な人格傾向の形成』の部分が自己嫌悪にあたる。
「捏造された自分の意思」、と言えばいいのか、、

つづく
posted by kagewari at 22:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月11日

自己嫌悪の再考3の前に、なぜマスキングと言ったのかにいついて

精神分析的に言えば、ここで抑圧(無意識へ)について説明すべきなのだろうけれど、現象としてどうなってるのかが大事で自我構造心理学的論文書いてるワケじゃないので、ここはマスキングという言葉をとっかかりに説明したい。

「マスキング」ってのはマスキングテープなんて商品があるぐらいなのだが、意味は「隠す」

9/9自己嫌悪の再考2で言う所の、
http://kagewari.seesaa.net/article/569008.html
経営の問題を無自覚に(経理担当として)「隠す」にこのマスキングがかかっている。意識が緊張して表面化してはいけない、と(嫌悪感や罪悪感で)意識を集中すると、個人的な悩みはそちら(裏帳簿)を中心にした物語への対応を自分自身に迫るので、「経営の問題」という根本的な問題はマスキング効果で「忘れ去られてしまう」乃至「自分で解決できるフェーズを超えるので問題としての自覚すら薄れる」と言える。

ところが、現代社会がそうであるように「内部告発」という問題提起によって大企業すら動くのであって、自己嫌悪の再考2にあるように、悩んでいる経理担当の周辺の人物が「いつも間違えのない人ね〜」とか「真面目人間ね〜」と、彼が胸の痛くなる話をするのではなく、
『彼の友人ではない赤の他人』が
例えばその会社の経営問題を追いかけ続けているジャーナリストが何かをつきとめ、彼に接触したらどうだろうか?
「この会社は何かを隠してるんじゃないですか?」

ここで、マスキングされていた問題は浮上し、悩んでいる裏帳簿問題から意識が緊張する力点は移動する。

これが精神分析。
悩んでいる人物は「裏帳簿をつけるようなこんな悪い人間である私はどうしたらいいのでしょう」と、裏帳簿を巡る問題の解決について相談されるのだが、一般のカウンセリングと違い、精神分析的アプローチは「問題は企業にあるのでしょう」となる。
相談されている事象を平然と無視しているように見えるのだが(この部分で自己嫌悪の反動による反発がおきやすい。「相談した事だけにに答えてくれ」)、話の構造から問題点を浮上させてこそ(本人だけで解決しないのは、悩んでいる問題自体が結果的に企業問題をマスキングするための問題になってしまい、それ自体を単体で解決する事は構造全体を温存し、一時的に苦痛が和らいでも「先送り」に過ぎないから)精神分析的アプローチのカウンセリングである。

さて、その時にさっきの話だと「その企業の問題を追いかけ続けているジャーナリスト」の、調査(分析)が、的外れだったら?という疑念をもたれるかも知れない。
ところがあの裏帳簿の話には、背理がある、
「君、裏帳簿をつけてくれないか」という人物も、本人だから。
つまり話を聞けばその全段や後段でその点は本人から話を聞く事ができるのであって、分析者(アナリスト)側にとっては無理な推理や推定をする必要は無い、聞いたまんまだから。
一般には相談者本人が問題にしていない話なので、話の中でもつい忘れ去られてしまうのだが、そこに全体像を見渡すポイントが「話されている」。

自我構造で言うなら、上司は「道徳や常識である超自我」、命令される経理は「自分と自覚される自我(実は人格の一部でしかない)」でマスキングがどのように効いているのかと言えば、本人が緊張しているのは「裏帳簿」になるので、回りが何か問題解決のヒントになるような話をしても耳に入らず、問題に気がついて「上司が問題じゃない?」といえば「そんな事で悩んでるんじゃないんだ」と拒絶。自分で知っている筈の悩みの答え=アイデアを自分自身で知ることすら出来なくなる。

一見この上司が「親や、それに相当する権威者」だと思うだろうが、話はそう簡単ではない。この上司が自分自身の「道徳や常識である超自我」になってしまい『自己嫌悪』が引き起こされる過程を「自己嫌悪の再考3」で書くとする。

その前に「超自我」話さないといかんね、
専門用語は使わないほうがいんだけれど、いきなり「道徳」と書くと違った意味に受け取られるので、難しいんだなこれがぁ、、
posted by kagewari at 19:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ストライキ延期の記者会見が凄かった

個として自立している人間と、組織の中で社会的地位を持つ有力者はどっちが怖いのか?

記者会見で握手を拒否する古田は怖かった、
労使交渉でこんな記者会見見たこと無い、
記者会見中のロッテ代表のコメント中に「(もうひとつの合併)しないでしょっ!」と横から古田

古田の台詞が「柔軟な対応をさせていただきました」
ロッテ代表との握手を厳しい顔で拒否、
これオーナー達どんな顔で見ただろう、そして全国の労組はどんな顔で見ただろう、選手会は自分たちの給料引き下げを提案し、且つ「12球団の収益をちゃんとシュミレーションしてるのか」と経営者側の不手際を指摘し、将来展望に口ごもる経営者側に基本方針の策定を迫る、

これ、プロ野球だけの話なんだろうか?
全国の企業の経営陣は、所謂ひとつの「オーナーサイド」とは違い有能なのだろうか?日本の労組は、徐々に組織率が落ちている、リストラにもまったく無力で(実際に首の切りすぎでリストラに失敗した事例もあるのに)、経済学的にも工場の海外移転はいいことばかりじゃなく、マクロで見たら国内需要の消失に繋がり、企業の国際競争力は財務体質だけなんてマヌケな話が横行し、、

何かできなかったのか?
権威に呑まれて口ごもった事はなかったか。
「オメーがおかしいんだよ」とか言えてたら、死ぬ事無かった中小企業の経営者もいたのじゃないか、
一般世論は近鉄の合併を完全に諦め争点にもなっていないのに、古田も磯部もまだその近鉄を諦めない。そして「それがダメなら」と、近鉄が無理だから凹むのではなく次の一手を考える。
野球は9回最後のバッターがアウトになるまで何が起きるかわからない、彼らにとったら諦めない事はごく当たり前で、
尚且つゲームに出ている。

今年のオリンピックは雰囲気が随分違った、メダルラッシュの背景に「個として自立」した選手の本番での強さを感じる、意味不明の「国のため」ではなく、一時期その反動として登場した「楽しむため」という神経質なそれでもなく、堂々と「個人の名誉のため日本代表として」
共同幻想の瓦解により、変わりつつあるこの国は、転換期であるが故に残念な事件も多く見られ、精神的に悩む人もそれに比例して増えると俺は予想しているけれど、同時に次の社会の有り様がチラホラと見えている。そこに共通するのは「個として能動的に」
なにがいいとか悪いとかではなく、「こう思うんだけどなぁ」というアレで、

60年安保闘争や学生紛争の時とはまるで違う、
12人ねぇ、、
「12人の怒れる男」とか、12使徒とか、12宮とか、干支とか、精神分析でオカルトってのもおかしいが(それが売りの精神分析もあるけどさ)、やっぱ12球団がいいんじゃないのと思うよ。
posted by kagewari at 05:58 | Comment(2) | TrackBack(2) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月10日

精神分析的な『今』のあり様と、プロ野球について書いていること。

精神分析ってのの基本は「なんでそうなるの」の理由を「こうでしょ」っと明解にすることなのだが、その視点から見るとマスコミの話とは違ってくる。なんかマスコミはおかしい、報道されている情報の断片を繋ぎ合わせると、別の話が見えてくる。

特に、その(報道における)『論調』に疑問を感じる事が多い。報道される内容に疑問を感じるのではないとこがポイントで、気になるのは『論調』、

何が言いたいのかっていうと、報道の中立性は報道の当事者性でなければならないと思うのだが、どうも「読者を代弁」という架空の幻想に浸かってしまって(必ずしも「視聴率や、スポンサーの意向、発行部数を意識するあまり」じゃないと思う)中立と言うより「こうあるといいのに、責任者はちゃんとするべき」的な強制力の無い『苦言』になっているケースが多い。随分批判も多かったが(俺自体好きでは無いが)、久米宏の特異性は当事者性の強さにあった(彼がジャーナリストではなかったからだろう)。
「こういうことを俺が聞きたい」「こうじゃないのかという疑問に答えてもらう」という『やりとり』が番組やインタビューで成立していた。(彼の中道左派的な思想的スタンスは問題あったと思うが)ともかく彼はエポックで、それが「生きた報道」だった点には見るべきものがあった。

オーナーサイドの考えがズレちゃってる事を、何故報道しないのか?「そもそも彼らの経営感覚はこれで大丈夫なんでしょうか?だから本業も赤字なのでは?」とか、

プロ野球問題を、俺が何かと取り上げているのは自分が昔かなりのプロ野球ファンだったという部分があるのは確かだが、選手会の面々が所謂サラリーマンでは無いものだから「個としての実存が強く」且つそれを支援する声にも「個としての発言が多い」。
これは共同幻想的な「なんとなく常識」に流されていきがちな部分に対するアンチテーゼであるってのに、報道が「もー」なので、どうしても書きたくなる。

選手会に触発されるように、東京高裁の原田和徳裁判長は随分と踏み込んだ警告をした、
http://www.asahi.com/sports/update/0908/129.html
「プロ野球組織の代表者には著名な法律家が就任しており、9日からの選手会との交渉では実質的な団体交渉が行われることが期待される」根来への痛烈な皮肉、
これは何だろう?
元々プロスポーツという娯楽は「個としての自由さ」を提供するとこが醍醐味で、損も得も無くファンは自分の好きな球団を応援し、プレーについて評論家気取りで語り、つかの間の自由を感じる。「そこが楽しい」
選手達はそんなファンの声に答え、個のパフォーマンスを披露する、ホームランバッターが好きなファンや、ヤクルトの土橋みたいな渋いのが好きなファンもいる、そこの自由さが「気まま」でいい。原田和徳裁判長の言葉にもそれを感じた。

今回の合併騒動は「まるでその真逆」で、非常に違和感を感じる。これまでのマスコミの巨人偏向報道にプロ野球ファンが感じてきた閉塞感のそれに近い。気ままなとこがまるで無い、
12球団あるって事は12種類のキャラを意味していて、そこに個々人が勝手に自分の思いを寄せているのであって、巨人が正義とかってことではない。(これはみんな知ってる事で、、)
肝心要のオーナーや球団代表が、野球に関して的外れな発言をし、的外れな談合をするものだから「みんな呆れた」というのが今回起きている現象で、やってる選手は「君ら(オーナー)は何やってんだ」となった。

非常にわかりやすい話だが、球場には1塁側と3塁側があり、日本シリーズにも1塁側と3塁側がある。その球場に足を運ぶファンの半分(あくまでもここは理想論で)は、他球団のファンであり「自分とこは黒字だ」という話を純粋には語れない。これ何処の球場でもお互い様なワケ、
「人気球団集めるとみな黒字」んなワケはない。

http://www.nikkansports.com/ns/baseball/p-bb-tp0-040910-0002.html
甲子園で「古田コール」
スポーツの美しさがここにある、
太鼓ドンドンとかで、一時外野席の野球ファンは随分と株を下げたが、今回の問題を契機にファンの心理も変わると思う。相手(11球団)あっての球団:ヤクルトであり、阪神でもある。

「なんで12球団に戻そうって一生懸命じゃないの?」
これは痛烈だ、
「なんで意地になって球団数を減らすの?」
「数が多いから赤字だ」なんて根拠は何処にも無い、オーナーサイドにあるのは明らかに「巨人戦含有率を増やすのには球団数が少ない方がいい」ぐらいなんだろう、
12球団2リーグの勝者と、8球団1リーグの勝者、これだけでも大きく違う。そして金がないと勝てないなんて事も無い(逆指名なんかに付き合わないでドラフトは全員高校生ってチームがあったっていいのだし)。巨人が優勝すると儲かるなんて神話は、地上波全国放送が巨人戦だけだからで、V9が過去となった今や他に理由は無い。
マルチチャンネルのこの時代に、広告の費用対効果や番組の魅力のキーが「一元化」なんて、時代に逆らってる、

メジャーリーグなんてまるで見なかった人が、メジャーという『プロ野球』を見るようになった(多様化した)。むしろ今はチャンスなんだと思う、危機だと思う方がおかしい。パリーグの観客動員は増え、日ハムの北海道フランチャイズは成功してる、「個としての自由:能動」っていう悩みの反対側にあるものが少しずつ伸びてきている。これを育てないでどうする。
posted by kagewari at 10:09 | Comment(2) | TrackBack(2) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月09日

自己嫌悪の再考2

映画やドラマのシーンに自己嫌悪はつきもので、もっぱら主人公が落ち込んでいるシーンのそれが「自己嫌悪」である。

たいがいこんなときの脇役のの台詞は、
「いつまでそうやってるつもりだ」
「そんな○○さんなんて嫌い」
「どうしちゃったの」
「何があったの?」
そして、、
「何があったのか話して」な後に、主人公立ち直り

つまり、何があったのか話したいのだが何も思い浮かばない場合、この落ち込んでいる主人公はそのまま落ち込んでる事になる。
「何も思い浮かばない」なんて事が有りうるのか?
ここであの話を思い出してもらいたい
http://kagewari.seesaa.net/article/547725.html
思い浮かばない事はある、知っていても思い浮かばないことすらある。

特に子供時代の「家庭における不快」は、まさか子供サイドから「お前等間違えてない?」という批判をすることは難しい。ましてや「なんか変な気がする」としても、家族の誰もがその感覚を理解してくれなさそうな(極端に言えば「十分に幸せだ」と言う調子で)場合、なんとかこの不快感から自我は生き延びようとする。(実は問題が表面化しないのは「子供には話さないほうがい」や、そもそも関係者が「脅迫(強迫)下にあってそれを認識できない」や、家族関係が支配的で「個々の会話が無い」が原因で問題は構成員全員でバレバレなのがほとんど)
「マスキング」でこれを説明してみたい。

ある企業で、経営の重大問題が発覚したとする。ある幹部の使い込みをなんとか内部処理で片付けたい、そこでその問題に全く無関係な経理の社員が呼ばれ「裏帳簿」を命令される。これまで真面目一直線な経理の社員は、その「裏帳簿」への罪悪感と嫌悪感でずっと苦しむ事となった。経営の重大問題は完全に隠蔽された。そして経理の彼が裏帳簿をつけていると思う人などなく「○○さんは真面目だねー」「いつも間違いがないね」と言われる度に胸が痛くなる。

「改善されるべき経営の問題は、裏帳簿に悩む経理の話に摩り替わった」

これが、個人の自我の中だけで起きると、問題は「嫌悪感によりマスキングされた」となり(現象としては「無意識に抑圧された」が正確なんだが、これ話すとややこしいので、、)『何を隠したのか思いつくまで表面化しないので、それは継続し客観的には自我構造の一部だと言える』これが、自己嫌悪。

ややわかりにくいか、、
やはり、「自己嫌悪の再考3」を書くか。。
posted by kagewari at 05:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月08日

オーナー会議を終えて、ちょっと先が見えてきたか、

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20040909k0000m050079000c.html
「NPBが誠実交渉義務を尽くさなければ、不当労働行為の責任を問われる可能性があるばかりでなく、野球の権威などに対する国民の信頼を失う事態も招きかねない」と東京高裁

http://www.sankei.co.jp/news/040908/spo112.htm
で久万が「読売のオーナーはええとこの坊ちゃんやから、労働者の気持ちは分からん。(ストは)やむをえん」
でも滝島の議事運営はとても民主的だったらしく、
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/pro/news/20040909k0000m050106000c.html
広島の松田オーナーが「公平で立派な議長で感銘した」

さて、横浜は「先送り発言」をしたのだが、新規参入にオーナー会議が譲歩の姿勢を見せたので、ともかく近鉄の合併は承認。
ここに古田君の「個人的発言だが新球団参入ならスト回避」が重なる。ようやく話がマトモなところに落ち着いてきた、近鉄の選手全員が新球団との契約で調停を申し入れるなど、様々な戦い方が提示されている今、「新球団=ほとんど近鉄」の可能性すらあり得てくる。これから状況がどう変わるのかわからないが、『論議を平場で』という状況に軸が移っていると思う。

宮内が面白い事言っている。
(わざわざ記者会見で「ちょっといいですか」)「労働条件でなく経営問題について申し入れている不思議なスト。大変戸惑っている」宮内ほどの人物が、これ言うかと思うが、大事な事だが、今回の選手会の言い分は「プロ野球の将来を考えること」で、労働条件をめぐる闘争なんてケチな話じゃない。経営者と労働側が理念の話し合いも持たずに金銭面や労働条件だけで交渉するなんて時代はとっくに終わってる。

「共同幻想」という名のフィクションが次々と形骸化している今、個人が何を思うのかって時代になり、民主主義としての論議は、金と労働条件だけなんて事は無い。
近鉄の本社が潰れようが会社更生法になろうが、それは経営の問題だが、12球団全球団の力によって運営されてきたプロ野球という名の文化(時とともに変化し続けていくこの文化は「同じ共同幻想でも形骸化してはいない」)は、権威ではなく選手個人、球団、裏方、OB、ファンによって今でも実存している、宮内はそこが見えていないのだろうか。

個人が発言する事は、自発であり且つ能動である。
『もっぱら受動であることに起因する閉塞』へのアンチテーゼである、選手会の声はそれぞれ選手個人の付託を受けたものであり、、、
古田って男が今やってる事は、オーナー達とは完全にフェイズが違っている。
posted by kagewari at 23:36 | Comment(4) | TrackBack(5) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月06日

古田君、なかなかやるね。いいアイデアじゃないかな土日スト。

『週休二日スト』とでも呼べばいいのか。

選手会の戦いはマジな次元になってきて、マスコミは巨人のパ入りなんとやらで(滝島がセ・リーグ各オーナーへのあいさつ野跡で「元オーナーの個人的意見」と火消しに回ってるらしいが)大騒ぎだが、選手会が問題にしているのはあくまでも近鉄・オリックスの合併であり、実は論点がズレている。
原則論で論陣を張ってるのは選手会、現実問題で右往左往しているのはオーナーサイドとマスコミって形だろう。

そして、原則論を唱える選手会が『現実に実力行使の準備を整えた』ここにMLBの労組が全面協力の姿勢をみせている。
http://www.sanspo.com/baseball/top/bt200409/bt2004090501.html
古田君はこことも接触していて、可能性として資金協力もありえるかも知れない。(年俸の低い二軍選手には死活問題だろうから。損害賠償にも備えなければならない。)

この選手会の動きが「密室談合で近鉄・オリックスの合併していいのか」という原則論に論点を引き戻す事が出来るのか?そして、古田君サイドに『ライブ・ドアーズ』参入カードが手に入るのか?
意外と落としどころは、『新規参入12球団』かも知れない。
ライブドアの新会社(球団)設立の動きが気になる、恐らく損害賠償の話が出ると、連合も共産党も大問題だとして大きな動きを見せるだろう、ナベツネの存在感がどんどん遠くへ消えていっているような気がするのは俺だけだろうか。

ぐっすん「泣けるぜ広島」一番の貧乏球団なのに、なんていい奴なんだろう、この前のヤクルト戦勝ち越し許す!
http://www.nikkansports.com/ns/baseball/f-bb-tp0-040906-0040.html
posted by kagewari at 20:51 | Comment(2) | TrackBack(5) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


Amazon 2
所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




comments他

・コメント欄は『公開掲示板』同様に原則削除禁止です
(基本的に削除依頼には応じられません、削除依頼は投稿禁止ワードとなってます)

・SPAM対策として一部キャリアからの投稿がIP規制の対象となってます
(同規制キャリアから登録抜けによる投稿がある場合、投稿は自動削除されると同時に規制IPに追加登録されます)



現在コメント欄閉鎖中 (2014.7.26〜)



LINK
□ダークサイドオブkagewari(ミラー)
■retour&Retour
□etc;;Blog

kagewari01
タグクラウド
RDF Site Summary
RSS 2.0