2004年09月30日

共同幻想と個人の関係

この辺の話を最近頻繁に取り上げているのだけれど、これは母屋の心理学テキストでも取り上げてる「共同幻想の崩壊」が背景にある。
http://kagewari.cside.com/kage_tex41.htm
http://kagewari.cside.com/kage_tex71.htm

ここでの論旨は、「文明化と共同幻想が反比例の傾向」にあることで、文明化で共同幻想はマスメディアがリードするキャッチコピーへとすり替わって行くと考えている。
正味ドグマ(言い切りの教義)である共同幻想の正当性はどうしても軽薄になるし、実際100年単位でプルーフされてきた共同幻想とは比較にならないので、マスネディアのキャッチコピーは共同幻想とは言えない。
結果、精神的な悩みと、自立的自我の登場は全く同じ環境から生み出される。
言いかえるなら「精神的な悩みと、自立的自我は似た構造をもっている」。

「考える葦である。」
我思う故に我在りというより「悩むが故に」、、

中世でも江戸でもいいんだけれど、当時から「そのケのあるタイプ」の社会不適応話は随分あって、それが小説や詩、絵画等の芸術の根底にあった。これらのモチベーションは「共同幻想に適応しない、自由な自我のストレス」であって、その表現の方法が封建社会下において、芸術系に偏った(その道が叶わない人は酒に溺れるか、「ヤクザ者やカブキ者」の名を受けて、アウトローやアウトサイダーの元祖となった)昔は共同幻想自体の組織率は高く、又普及率も高い上にその拘束力も強かったので、不適応者自体の数がレアであって、その希少性から彼らの芸術的な成功の確率も高かったのだが、現代はその代わりに芸術や芸能言論の市場は急拡大していて職業としてもそれが成立する余地すらある。

「人の自我は全体として均衡する」とも言えるのだが、経済と同じでそこにはタイムラグがあり、又共同幻想の崩壊は家族問題として表面化するの事が多いので、自立的な自我の成立や共同幻想への復帰のプロセスは「精神的な悩み」の過程を踏む事がどうしても多くなる。(当然ナチュボーンの単独者もいるワケで、共同幻想の崩壊がいつも『問題』として表に出るのワケでは無い)

実際実存主義哲学における『単独者』の定義は、この自立的自我とほとんど同じで(俺は精神分析的解釈としては全く同じだと思っている)その全てが非共同幻想とは言えない。なんやかんや共存共栄していくのだし、共同幻想による超自我を前提にした『普通』の選択もマスメディアのキャッチコピーをカウンターカルチャーの出所として多様化するので、世界全体は無秩序にクロースする。
あくまで相対的な均衡がありえるんで、いいとか悪いではない。

しかし、個人の意識がそこまで混沌とすると、フロイドの定義した「エス」そのものになってしまい自我が成立出来なくなる。共同幻想は『正しさらしさ』をリアリティーとして担保する事で成立しているワケだが、自立的自我はその生存意義をリアルで担保する事になる、これが『実存主義』の背景と一致する。
従って、正当性ではなく、自分が生きている現実が自我成立の根拠であり、共同幻想と個人の関係は「個人が『共同幻想における客観的現実』となることで、相互補完の関係となる」。
posted by kagewari at 00:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月27日

新球団と政治について精神分析的にイロイロ考えてみる

思うんだけれど、赤字赤字と言っても(12球団あわせた赤字が150億とかね)総収入もデカイので、産業として『大手』である事を無しにするのはおかしな話で、これだけ世間で問題がデカくなるのは、そのファン層の広さや深さを改めて思い知らされる。

よく似ているのは政治、
政治問題がいくら大きくてもこの国では「投票率90%」なんて有り得ない。=「球場が満席」、、
なんていうのか、野球観る時間が暇じゃ無い会社員も多い(スカパーと契約しても時間までに帰れない)、当然球場に入る時間は8時とかになりかねない。

野球ファンと浮動票は良く似ている。
野球に関心があっても、球場に行くとか有料放送と契約とかに一発で結びつく保障は無い。
投票行動から推理すると、不在者投票が増えててたり、、

しかし、浮動票は支持政党がはっきりしていないワケだから言うなら非共同幻想層と言え、プロ野球は好きだが、何処かのチームに極端に肩入れしていない層(パ・リーグファンとかセ・リーグファンとか、選手個々人のファンとか=一部の日本人選手目当てのメジャーファン)これとよく似ている。

そして、選挙の趨勢を決するのは浮動票の取り込み。ジリ貧の政党の次の手は組織票固め。球場を満席にする手法と似てなくもない、、後ろ向きのチームはシーズンシートをパーティー券よろしく営業が売らなきゃならないのだが、この組織票固めはいいシートが市場に出ないという弊害にもなる。。

そもそも非共同幻想層をどう見るのか?
「個々人の発想=どっかの政党の公約」になる筈無いので、明解に支持政党なしであるのが、自然。「投票行動が政権交代にあるから」とか「投票行動がダイレクトに何かの政策を決するから(消費税の時のように)」だと、俄然投票率も上がるのだろうが、どう転んでも現状維持だと投票率は上昇しない。。
「球場に応援に行ったから何?」
  ↑
「このファンは浮動票だからファンではない」こりゃ無茶でしょう、山ほどスポーツ新聞読んでたり、情報番組見てるだけでも裾野の経済活動にはプロ野球ファンとして関与している。
投票行動に移らなくても「支持率を形成できる」のに似ている。(これ視聴率と同じ)、この「支持率」がバカにならない、投票行動では無いが、首相のクビが飛ぶ事もある。
『浮動票が政治にとって薄い関与を意味する』なーんて筈無い。
この層はむしろ考える人たちであるが故に「組織的行動から離れている」のだから、球場に野球を観にいくなら外野席の応援団サイドは避けたいと思う筈。
し か し 球団はそこへの配慮が無い。
政党が浮動票より支持する組織の意向で政策を決定するのと似ている。。

支持してほしい浮動票を政党のファンにする努力はあるのか?
これへの回答が、「ちょっといい男の若手起用」なんてのじゃ目も当てられない。
支持して欲しいファンを球場に呼ぶ努力をしているのか?
これへの回答が、「知名度の高い選手監督の起用」なんてのじゃ目も当てられない。

プロ野球界も政党も浮動票を、「個々人として考える層」として思っていないのじゃないか?これひょっとすると、「フラフラと表面だけであっちいったり、こっちいったりする人」ぐらいに思っていたら大間違いなのに。。

所謂体制側(旧共同幻想主体)には、明解に帰属しない層が「共同幻想=道徳的正統感覚」のパラドックスで「気に入らない奴等」に構造的になりがちで、、、

これがオーナーサイドの読み違えの原因となった

プロ野球ストに対する支持率は、「気に入らない奴等」的な見方への大反発であって、選手会は圧倒的に浮動票を集めた。
「支持するとダイレクトに何かが変わる」
古田の「多数のファン」という表現は球場に応援に来ていないファンを含んでいる事を連想させる
「ファンって何処の誰」的コミッショナー以下のオーナーサイドの見方は「たかが選手」と相まって浮動票の侮辱になった。

どう考えても、かなりコアに物事を考える層こそ浮動票で、彼らは中途半端な政策や曖昧でセンスの無いキャッチコピーだけで失望する(投票意欲さえ失う)、これは共同幻想が壊れている事に関わっているのだけれど(=巨人人気の崩壊と同意)、巨人以外(ある意味自民以外)のヤクルトの選手が支持(選手会への支持なのだが、結果的にこの人物の株が上昇したのは事実)を集める事は、各政党も考えたらどうかと思う。
彼の特徴は「個人としての意見が明解だったところ」
支持を失ったオーナーサイドの特徴は「管理能力に欠ける上司そっくりだったところ(いかにも上からものを言っている)」

日本という国の意識のかなりの部分の自我が、在るべき存在として認識されていないこと、この喪失が「デフレの正体」だと俺は思っている。
posted by kagewari at 14:39 | Comment(2) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月24日

選手会の戦いは、やっと話を民主主義の場に引き戻した。

これからの交渉で、やっと恣意的では無い改革についてオープンに話し合う事ができるようになるだろう。
戦いは始まったところで、新聞紙面の一面を占める話にまで発展したこの問題は、マスコミのありかたにまで発展した。

読売は孤立した。オリックスは企業本体の存続をも視野に入れないとならない状況に追い込まれ、ダイエー本社サイドは別の意味で忙しかったのだが「見ちゃおれん」と流れにまかすのをやめた、
交渉が忙しく古田がスタメンで試合に出られず(かすかな優勝の可能性をかけた大事なゲームなのだが)若松が「いってこい」と、調印が終わりゲームに戻った古田が代打で出場した時には中日ファンからも大声援が。労組の交渉が忙しく、監督と連絡を取って試合に遅れる選手がいるなんてこれまでの常識では考えられな事で、小沢が自民党の一党支配を破壊するために何年もかけてきた事を(そんな流れもあって)、プロ野球界は一気に実現した。

新しい時代になったとかではない。
やっと民主主義ってものになったか、という線だろう。
「12球団の中の1球団の発言は12分の1である」
やっとそうなった、

ライブドアか楽天が参入するだろう、今後参入に失敗した方が来期に又挑戦する時には、偶数を確保するためにシダックスの参加を促すなんてカードも残した。日本のデフレは経済学的にも大問題のリストラ(不良債権を処分せず手近な、財務均衡を求める事はIMF主導の国家財政の指導と同じ選択で、バランスシートは良くなるが、循環という点で歪なものになり結果的に経済が破綻しかねない)というバブルに継ぐ失態を演じたのだが、プロ野球は実体経済の好転も背景にあるにせよ「赤字を抱える組織がどうあるべきなのか」について前に踏み出した。

「オリックスは中村GMでいいのか」とか
「阪神のコーチ陣刷新はあたりか」とか
「広島は派閥争い止めて衣笠呼ぼうよ」とか
「横浜これでいいのか」とか
そんな話題で激論になるのがやはりいいね、
posted by kagewari at 11:17 | Comment(2) | TrackBack(1) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月22日

自己嫌悪の再考3

自己嫌悪が超自我に取り込まれてしまう流れは、躾の機能と似ている。
躾は反省と違い「外的な行動の基準」を生み出すが「自立的では無いので、そうでなければならない自覚は間違い無くあるが、それがどうしてかという根拠は受け売りでロジック自体を説明できる代物ではない」。
つまり、定着した躾的判断は『無条件』である。

自己嫌悪の矛盾は、躾に良く似た「不快」=叱られらり、ネグレクトされたり、暴力を振るわれたり、を「意味ありげなものに違いない」と、子供が逃げられない「親は偉いんじゃないか?という普遍的な誇大性」を動機に発生する。
よーく考えてもらいたい。
つ ま り
親が単に個人的な理由でその時不機嫌であったり神経質であった時、それを理由に何か暴力的な(嫌味を含めて)扱いを子供にしたとする。その時子供の「親は偉いんじゃないのか?」的妄信にそれは矛盾するので、反射的に「躾に似た何かメッセージなのではないのか」と誤解される事が多い。親が直後にバツが悪そうに「すまなかった、ちょっと会社でイロイロあったんだ」とかもう片方の親が「疲れてるんだよ、気にするななんの意味も無い」と言えばこの誤解は発生しない。(「彼乃至彼女は神経症だ」までは期待する事は無い。歴史的解釈は大人になってからでも間に合うからだ。)
と こ ろ が
夫婦間で既に関係が欺瞞的であったりすると、そんな風景自体が相手(親)にも不快なので、「あまり関わりたくない」ので、逆に「あんたも静かにしてなさい」と有り得ない対応になるケースが起きる事も想像に難くない。だとすると、この「親は偉いんじゃないのか?」という妄信は混乱する。

あれは『躾』だったんだ

■これをキーワードに歴史の捏造は始まり、親の不条理な行動を「躾だ」と解釈した瞬間、それは「自分が悪いんだ」という自己嫌悪の萌芽となる。親の見せた不条理な言動は無意識に沈み、それは「なんか嫌な時がある、その時は嫌いだ」と事実からズレてしまい、後々感情的な対立があったとしても、冷静に「この人は個人的に問題を抱えているのでは?」という発想は『一切』『完璧に』想像すら出来なくなる。
◎「親としてなんでこうできないんだ、凄く嫌だ」といくら思っても、あくまで『親として』=『親である事を認めようとしている』=「そもそも人間個人として悩みを抱えているなどの、問題があるのでは?」から反対に遠ざかってしまう。

反対に遠ざかる=抑圧
一見感情的な対立は、親を糾弾しているようだが、見方を変えると積極的に親であることを認めている点に(親としての責任を糾弾する事は、最低条件彼乃至彼女が『親である事を肯定している事になってしまうため』。実は積極的に「立派な親なのに」を連呼しているというパラドックスに陥っている。)自立的には解消が非常に難しい『ねじれ』が起きる。
「〜された」という表現は、少なくとも相手の行動に「意図があった」事を意味してしまうため、その意味を『道徳的な不快感や不機嫌さ』であるという有り得ない暗韻が踏まれてしまう。結果悩んでいる人の動機は全て『受動になる』。「〜されたので」「〜に思われるので」「〜と見られてる気がして」、、、


そして「彼乃至彼女はなんら躾のようなメッセージが無いので、子供ナリに想像しなくちゃならない」=自己嫌悪にまつわる道徳性や倫理性がステレオタイプであり、幼稚ともいえる原因はここにある。親の言って無い言葉を子供が「躾を捏造するために、とっさに考えている」ほか方法がないからだ。それは、鬱傾向の人にとって頻繁に使われるキーワード「いい子でいなくちゃ」という連想に繋がり、この言葉の背理は「何も意識しないなら悪い子なんだ」になる。
この「何も意識しないなら」→「意識しなくちゃ」=脅迫(強迫)の正体。

これが『自己嫌悪』


話は自己嫌悪から離れるが、前段に触れた話に重要な部分がある、
「親は偉いんじゃないのか?」
子供の表情にはそれが表に出ていると考えていい、そしてその期待を裏切られた時の失望も顔に出ているだろう。おそらく、これが親の神経症的傾向を刺激し「親の不条理な行動を誘発する」。親の立場になってみれば「現在を責められているような感じ」になるからだ。或いは「全てを見透かされているような恐怖」、
■幼児虐待は、投影が関係するので、その構造はもっと複雑なのだが、上記の子供が子供であるが故に親の神経症的傾向を刺激する部分は、重要な原因のひとつだと言っていい。
posted by kagewari at 14:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月21日

プロ野球ストからいろんな事を考えてみる

簡単に世代交代という次元のものではないだろう。共同幻想の崩壊から個人の時代えと移り変わっている風景は、一見新時代が到来しているようだが、そうではない。
伝統的な共同幻想は街や村の個人達の意志によって構成されていて、決して企業や法人によってではない。共同幻想へ回帰するのではないが、共同幻想が個人の意志を解放するための条件だったのなら(矛盾するが、個人のあり方を定義するのが共同幻想の本旨だと言える)今起きている動きは平和な社会に起きる自明のもので、殊更不思議な事では無い。

日本は元々農耕によって文化的にも発展してきた、労働形態は雇用と言うより借地なのだから、『自営』であり、現在の日本の企業の大半が中小零細であることはその延長上の話で、本質的にはこの国は封建主義化の個人主義だったと言える。庶民の生活は自由であって、ヒエラルキーは社会的な実存だが、そもそも個人の実存にそんなものはさして関係無い。社会的な階層の流動化が個人の自由を促すのではなく、個人の発言が表現されやすい環境が自由を促す。
「農家から一般企業の課長になることが自由の象徴」なワケが無い。
プロ野球人気は、そんなチームにおける自由(好き勝手ではない、勝利に向けていかに個人のパフォーマンスを発揮するのかであって、「個人を自由にするサイン」がある、これが監督の采配の質を決定付ける)の表現にあるのであって、特にピッチャーとバッターの個人対決を基本に行われるルールは、それを象徴している。

そのプロ野球ストから、いろんな事が見える。
http://www.asahi.com/special/baseballteam/TKY200409200265.html
  ↑
所謂日本ではマイナーな存在の「大企業の人間の発言」だ。
これじゃ小学生の喧嘩以下じゃないか、、
古田が「僕はガキのつかいじゃないので」といった発言と好対照だ。

いい大人の「交渉」なんてレヴェルではない。大企業のロジックそのものの地盤沈下が著しく、カルロ・スゴーンじゃないが企業の立て直しに、強い個人の意思(間違っても強権発動やワンマンではない)が不可欠なのは今や実証されている。
ナベツネの意志に逆らえず、今や巨人機関紙と巨人放送局に成り下がった読売と日本テレビの有様は、企業全体の信用を落としていると言えるだろう。皮肉な事にプロ野球巨人軍のイメージダウンになっている。

各球団内部の首脳会議で怒号が飛び交う激しい論議がないようでは、企業の発言自体はいつも軽薄で短期的なものに過ぎなくなる、まさか当事者がそんな無能である筈無く、「各個人の能力がスポイルされている会社だ」を意味している。

こりゃ問題だ、
古田君の株がプロ野球界を離れたとこで上昇しているとこが、それをよく表している。民主党だけではなく(連合にしてみれば、労組出身という意味では久々の大スター)テレビ局にとっても逸材で(彼はヤクルトの監督の方が大事だろうけれど)、オーナーサイドの人材で、そういう株が上昇しているのは久万(1リーグから180度方針転換した経営感覚は流石)ぐらいだ。
色んな意味でこのストライキは有意義なものになっている。
posted by kagewari at 19:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月20日

今回の選手会ストの意義について。

12球団の色分けがはっきりしてきた。
巨人、西武、ロッテ、オリックス・近鉄(4−1=3)+コミッショナー(辞める)=『奴等』
日ハム、阪神、広島、中日(4)=選手会
横浜、ヤクルト(2)=選手会寄りだが長い物に巻かれがち
6球団は選手会に賛成してるじゃないか。
http://www.asahi.com/special/baseballteam/TKY200409180175.html
日ハム偉い!大社啓二会長は『奴等』に組しない唯一のパリーグ球団、この人にはちゃんとプライドがある。
http://www.mainichi-msn.co.jp/sports/pro/news/20040919k0000m050095000c.html

問題は消滅する近鉄が偉そうに発言してる事と、中内御大(親)失脚によって決定権の無い唯一のオーナーダイエー中内。ここ、ダイエー本体の処理が決まれば新執行部になるかもしれない、今のとこ実質経営権の無い中内が、オーナー会議に出てる事が大問題。常識的な新執行部ができれば、ここの球団単独保有はあたりまえだろうし、現在球場満員なので巨人に擦り寄る弱みは少ない。

よく考えてみよう。

新球団ライブ・ドアーズが参入したとする、放映権はインターネット中継を含む一元管理、交流試合アリ。選手会寄り球団8、『奴等』は4。
そして、名経営者としての名前に汚点をつけてしまった宮内。このままでは新球団のイメージは最悪、吸収合併どころか残る選手のほとんどは近鉄の主力、、。それこそ身売りするのか選手会寄りに舵を切らないと本業のイメージまで低下する。果たして近鉄との合併は『奴等に騙された』とか「経営判断の誤り」となる。
ロッテサポーターの熱心さは有名で、提・渡辺ラインの別働隊のようなていたらくをいつまでも許さないだろう。西武も国土計画も赤字の噂、、西武の身売りはまるでない話じゃ無いらしい。新規参入球団の候補は「ライブドアの他にも楽天とシダックス」。

■将来的な球団地図は「巨人の孤立」に他ならない。
■将来的なマスコミ地図は「読売・日テレの孤立」に他ならない。

選手会とオーナー会議が協力して、戦闘力のあるプロ野球界を運営する未来はほとんど確実。
@奴等が1リーグ化に成功しない限り。
だから「12球団の存続と、新規参入」を奴等には容認しがたい。

って事はここを突破すると勝利が見える、世論の風向きは選手会と阪神中心の球団よりなんだから、今回のストは「球界の将来をどう考えるのか」について、オーナーサイドに踏絵を突きつけている事になる。この意義は深い、広島のオーナーが「言葉が出ないほどショック」と、、。代表者会議で彼等が本気で発言しだすのではないだろうか?
posted by kagewari at 00:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月18日

根来はおかしい、古田も泣くな

http://www.asahi.com/sports/update/0917/143.html
こいつが不愉快だ、
理屈が通らないのは経営者サイドだ。ごそごそごそごそ裏で何を話しているのか。
そしてあの口ぽっかん読売、
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20040909ig91.htm
戦前からの問題だが、日本の報道機関の偏向性解決の出口の無さに愕然とする。
ジャーナリストとして、コミッショナーとして全く無責任だ。小さなムラの中では『忠実』なのだろうが、君ら生きてるんか!

古田も泣くな、いんだストで、他にどうしようっていうんだ。政治的な言葉で1リーグの方向性をなんとしても(解釈として)残せるような玉虫色はいかん、これを許すと又50年は嘗められる。
そして古田ファンに謝るな、そのための週末ストだろ、ここでガタガタ言うファンは単なる「プロ野球ファン」だ、浮動票の中にこそコアな個人の意志があり、野球が観たいだけじゃないんだ、キャンプからそれを楽しんでる人は誰だ?オフシーズンから楽しみにしてる人は誰だ?

球団の実存ってのは週末のストで飛ぶような軽いものじゃない。
その実存が怪しくなってる、合併でける球団は近鉄だけじゃない、オリックスすら合併後は(どう考えても戦力は近鉄が上なんだから)消滅と言っていい、合併後の球団は談合によって産まれた鬼子であって、素直に応援できるファンがいるわけない。
合併後の球団を正常に、新球団として生きさせる上でも新規加入球団は必要だ、ライブドアと楽天というカードがある今、選手会の論旨はプロ野球界を改革する最も有効な存在になった、これを死守すべきだ。

戦いはこれからだよ古田君!
posted by kagewari at 10:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月16日

「何故自己嫌悪がキャッチであると判断されるのか?」の心理学的構造

「何故自己嫌悪がキャッチであると判断されるのか?」
超自我としてこの概念が誤って取り込まれるのは、それが道徳や倫理とよく似ているからだと言える。

つまり、
「こうしちゃダメ、こうしなくちゃ」
「自分が悪いんだから(こんなじゃダメなんだ)」
「嫌でもこうじゃないと愛されないんだ(ほんとはこうじゃないといけないから)」

よく考えてもらいたい、躾けられた道徳に良く似ている。
「モノを盗んじゃダメ、働かなくちゃ」
「叱られたのは自分が悪かったからなんだ」
「辛いけれど努力しなきゃダメ、上手く出来たらほら褒めてもらえる」

この相似によって、自己嫌悪は超自我に「道徳や倫理、常識と同格で取り込まれる」
しかし、本来不合理な家族の不仲や、表面上の(欺瞞的)仲の良さの演出どを原因にして起きる「自己嫌悪」は、道徳や倫理である筈が無い。
自己嫌悪による道徳には特徴がある。(家族に問題があるので、子供に嫌悪すべき問題は無いので)それが、無理のある話であるが故に「いかにもステレオタイプの道徳」と結合する(道徳の中でも詳細まで詰められたアイデアだと、その『理』によって、自己嫌悪自体が批判されてしまうので)。
『親孝行』『家族愛』、、何故か?
自己嫌悪について自我に疑われると「自分自身に自己嫌悪が似非道徳であることがバレるので、自己嫌悪の構造が壊れてしまう」からだ。

つまり、悩んでいる人にもっとも有効なのは「自分自身の道徳観を疑うこと」で、これは「常識を疑え」というプラトンの言葉に良く似ている。
もっぱら精神分析の役割は、超自我に取り込まれている不合理を、会話の中から証明し「これは変ですね」と、悩んでいる本人の自我の代理人であるかのように問題提起することなワケだ。

これ、客観的には「分析者が、悩んでいる人物の道徳観を批判している構造に見える」これが自己嫌悪の反動による反発を引き起こす(「私が悪いというのか!」自己嫌悪とは、自己による嫌悪であり、他人からの批判を拒絶する。「わかってるそんな事」という風に受け取られてしまう)。そもそも悩んでいる人が自分自身でその構造を解消できない理由でもある。(この情緒的反発が、自己嫌悪保存の力になる)

@皮肉な事に「自分が悪い」という「自己嫌悪」が、「道徳の批判(正しいという認識の批判=悪いのか?と認識されてしまう)」に抵抗する。
そう「自分は正しい」と、
『「自分が悪い」という、その自分の判断の正しさを「道徳」として取り込んでいる』なんて構造は、矛盾しているとも言えるし、らせん状にかみ合っていないとも言える。

この「悪い事を正しいという」ねじれが、悩みを生み出す『葛藤』(表現としては「アンビバレント」でも可)。

「自分が悪いという事が道徳だ」
これをデ・コードする
「家族には何にも問題が無かった、それを疑うのは不道徳だ」これが他人の言葉を拒絶する『障壁』の正体。自分で知っている筈のことすら思い出せなくなる(=抑圧)。極端に言えば記憶は捏造され、一部記憶の欠落さえ起きる(これを催眠誘導で、、は無理があると思う、個人的には催眠には反対なんだな俺、催眠はあくまで誘導で、事実認定の条件が一方的すぎる)。

なぜこんなねじれた道徳がキャッチになるのか?
それは、「親は素晴らしいんだ」という誇大性が、幼児に普遍的にみられる『幼児の常識』だからで、「自分と比較するなら、この家庭で問題あるのは彼等じゃないか?」と幼児が思うなんてほとんど期待できない。
しかし、「第3者の関与」で情報が与えられると事情は変わる。「近所のおばちゃん」「祖父、祖母(これは難しい、親の強迫の原因になる人物の可能性が高いので)」「叔父さん、叔母さん」「学校の先生」「近所のお兄さん」「父親の同僚」「友達の両親」「友達」、、、。

ここまでで、だいたい予想がつくだろう。
自己嫌悪の成立には、「家庭の地域社会からの孤立」が絡んでいる事が多い。
つまり、現代社会(=地域社会や伝統文化の衰退による、共同幻想のキャッチの力の後退や、共同幻想自体の軽薄化=共同幻想の崩壊)そのもの。
核家族以来、『鬱や精神的悩み』は、比例するように増えている。

悩みを持つ人が、同時に第3者との関係障害に(ある意味関係障害を持たないと自己嫌悪が壊れる)悩まされているケースが多いこともわかってもらえると思う。
posted by kagewari at 13:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月15日

心理学における共同幻想と超自我の関係

つまるところ常識や道徳とか倫理なんてものは、普遍的まで辻褄があっていなくても、擬似的にでも「これは定番(あのマヌケな新興宗教の「定説なんですねぇ」はあながちはずれじゃなかったので笑えた)だろ」な概念を一人で考えるのはスゲー負担なので(まさか人類全員が、人文学系の教授張りに勉強するワケにもいかず。実際「保守思想」にあるように、保守的なアイデアは、文面として残る事無く慣習として継続するので、論理的に解釈されていないからこそ「保守」である。新しいアイデア=進歩的だから、その時点でアンチコンサバ、、)通常、
@「道徳的や倫理的分野のロジックは受け売りで、内容を個人的に精査することは無い」

つまり共同幻想として成立している概念を「キャッチ」という論法で自我に(超自我として)取り込む(言語化させる)って仕組みになっている。
これが小学生の殺人質問パラドックス(これに気が付いたのは、ビートたけし)、「何故人を殺してはいけないのか」という設問の矛盾を利用した話の構成要件になってる。

そのこころは、「理由を考えて、なるほどそうだ」という過程を経ないで認識されるジャンルの話に、それを後から「何で?」とやっても即答できないからといって「理由が無い」と断定するのは「ある種のヒッカケ(パラドックス)」であって、設問自体に実は意味が無い。
セオリーの理由を尋ねるような話。
セオリーの真偽を確認するなら、自分の論旨を投げかけなければならず(小学生の設問で言うなら、彼は「こうこうこういう理由で人を殺してもいい筈だ、如何?」でなければならない)、そうではないなら、その設問は単なる「何故セオリーか?」になる。ところがセオリーとはセオリーだからで、セオリーに理由は無い。「何故流行っているのか?」はアリだが「多数売れているからといって流行っていると何故言うのか?」と言っても質問自体が壊れていることになる。多数売れている現象を「流行っている」と言うからだ。

これが「キャッチコピー」。

共同幻想は、このコピーの宝庫で、最近のキーワードの中でわかりやすく解釈するなら、HPソフトなんかにおまけでついてる『素材集(雛形)』みたいなもん

ここで重要な事に気が付く、素材集に頼る(ちょっと表現がおかしいが、現象は同じだから)と、作品は似たり寄ったりの結果になる。これを『共同幻想によって演出された近似性=普通』となる、逆から言えば、これが『普通の定義』、
素材集など無視して自分で何でも作れば(これはどえらい非効率なので、みんなで、んなことしたら社会がもたない)オリジナル度は高いが、完成度は相当実力が無いと保障できない、だからこういう行為を通常「無謀」という。

これに対するオリジナル派の最も適当な反論は「オリジナルに意味があるのであって、完成度などさして重要ではない」になるが、作品の完成度の効率を尊重し「普通の選択をおこなう派」としては受け入れがたい話であり「それは君の自己満足だ」となる。こんな会話が歴史の中で延々と行われてきた、

普通派にもウケのいい=『キャッチなオリジナルは』創作と呼ばれその一部は芸術(受け入れられるのではなく、ひな壇に上げられた場合)と呼ばれる。
どっちがいいとかは、これまるで関係なし、

共存関係を築く上でオリジナル派が「これこそ普遍的」などと、共同幻想派の、よって立つ正しさらしさ=リアリティーを、脅かしたり批判しなければ、「出来損ないか」と穏便に受け入れられる。逆説になるが、オリジナル派にとって「共同幻想普通派」に認定されたら、「これオリジナル?」になるので、皮肉にもその行為は、自分のアイデアのオリジナル性への自殺行為になる。

変な話でしょ、変だよね、
でもそうなんだからしょうがないってんだ、
つまり自分のオリジナルアイデアに正しさらしさ(=リアリティー)を求めた時点で、「正しいと思った自発的根拠は壊れる」なぜなら「正しいと思う自発的認識と、正しいらしさという予定されるそれらしら=推定は相容れない概念であり、『断定的な賭け』と『推定される予定』は水と油だから」だ。

妙な話でしょ、妙だよね、
これ、実は共通のテーブルの話じゃないから。無理くり共通のテーブルに乗せると上記のように「何言ってんだかわからん話になる」。

どうして「共通のテーブル(=同じフェイズ)じゃないのか?その違いは?」

共同幻想は超自我的なアイデアで、その機能の仕方は「オートマチック(無意識的)」
オリジナルアイデアは、自我的なもので、その機能の仕方は「確信犯的で、自覚的」
前者には気合も自覚もあまり必要無いが(仕組みが脅迫(強迫)的ともいえるので)、後者には気合や自覚が必要になる。

なんとなくわかってもらえるだろうか?
『反省』という概念は、後者のテーブルに属し、『自己嫌悪』という概念は前者に属する。

うんじゃ、
『何故自己嫌悪がキャッチであると判断されるのか?』

つづく
posted by kagewari at 08:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月13日

『躾(しつけ)』の心理学的解釈

つまり「フロイドいうとこの超自我の話」、
殊更「超自我」ってモノがあるのではなく、前意識的(しょっちゅう出張ってこないの意)な自我理念(ほとんど憲法)のことで、大体何かの事情で「超自我のお出まし」な時には、それは『道徳や倫理、常識』として自分自身に認知される。

それ(超自我)自体が道徳であるのじゃなく、道徳的な意識の一群が超自我なワケだ、(「人類全員が道徳家」な筈ないから)
『道徳的』の『的』というリアリティー(=もっともらしさ)は何を意味するのかっていうと、自 分 自 身 の 体 験 から 考 えた の では 無い「いいことと悪い事の分別や、」「なんとなく『そうしている』うちに習い性となった自分なりの生存の手口」だってとこで、ポイントは『自分で考えていない』ってとこ

物心ついた=自我がおっぱじまった時から、既に「自分のキャラ」として定着し、このキャラを恣意的に操作する事を『躾(しつけ)』と呼ぶ、

まだ自立的な意識がある前に、なんで又この「脅迫的生きる道」が勝手に生成されるのか?答えは簡単で、言葉(自我)によるコミュニケーションをしない自然界の生き物だって「食べていいもの悪いものや、群れのルール」を必ず承知している、人間にしても群れへ適応する上では、言語化以前から問題なくこの部分の学習をしているのであり、原始的脳の話じゃないが、知性は言語以前から動き出している証明で、自我は言語化以降の代物なので、ちょっとパラドックなのだが、この「言語化以前の自分の知性は言語化出来ない」=前意識的である。

なので、大人になるにつれ、四文字熟語なんかを知って「あ!これだ、これだったんだ。俺の前意識のいいたそうなことはわぁ!」と後付け(?)で言語化されると、常識となる。(通常「それが常識」という話をしている人物が、どこか得意げに見えるのは、この前意識的超自我の言語化成功記念のような追体験的快感があるためで、話し手は若干興奮する)
当然この「これだったんだ」の過程にもっとも深く関与する可能性のある人物は「親」であり、望むと望まざるに関わらず、多大な影響を与える。「それはねこういうことなんだよ」と語りかける絶対的権威(これは幼児ならではの誤解)者の発言の影響力は多大だ。
「あるいは、なんでわからないんだ!」と引っ叩かれたり(これの意味は、どっちにしようか迷っているふたつ以上の意見の、片方に暴力で加勢する事になるので、まったく効果がないのではないが、引っ叩かれる当事者がまるで考えもしない意見で「加勢したつもり」でやると単なる空回り暴力に過ぎないので、ジェネレーションギャプ等がある場合非常にリスクは高い。度が過ぎると殴られた当事者は考えてもいない意見を捏造し、「こうしろといった」として脅迫的な人格傾向の形成に繋がる)

ポイントは「何処の馬の骨ともわからない年長者を、自分の血縁上の親という縁だけで、多感な一時期絶対的権威と誤解」するとこで、これの偏りを修正する現象を『反抗期』と呼ぶ。子供にとって仮想上(友人を通じて他人の家庭の情報屋を得たり、テレビドラマ等を見た結果)「自分は絶対的権威を信じ込まされていた」と感じるためで、反抗期のきっかけは幻滅や裏切りとして認知される。
EX.男の子が突然自分の母親を「おばさん」とか「デブ」とか言い出すのは、それ以前は「凄く美人で最高の女性」と誤解していた事を修正しようとしているからで、自我内のバランスを取るために「凄く美人で最高の女性」のカウンターとして選択される。
 女の子の「お父さんの後はお風呂が汚い」というのも同じ原理。

ここまでの話で、この超自我がどえらいいいかげんな環境で成立してしまうのかが、おわかり頂けると思う。これを自我が力ずくで制圧するツールのひとつが「習い事」や「哲学」「宗教」「オカルト」になる、

言い換えると、反抗期が現実と誇大妄想を擦り合わせるチャンスであり、これを逃がすと、超自我は自我に対して脅迫的な影響力を強く残し「ストレス」となる(自我への干渉の頻度が高いので)。自我は超自我には(「習い事」や「哲学」「宗教」「オカルト」等で対抗するしかないが、この文化的な好奇心を疎外する強制力が親の実力行使なんかで起きると、その反抗も難しいものになる)簡単に逆らえ無いので、この未修正の超自我的理想をなんとか実現しようと『汗をかく』=本人には「苦しんでいる」「努力している」等と認知される。

未修正の超自我は誇大妄想的なテーマを多く含む、これを『エディプスコンプレックス』と呼ぶ。(この強引な説明に反論多だと思うが、ここはあくまでも現象面で考えてくれ)
ここまでの話で誤解が非常に多く発生していると思うので、補足的に説明するけれど、「この草は食べていい」とか「この匂いは仲間」とかの元々の野性的知性は存在は強迫的でもストレスフルでは無く「あ!これだ、これだったんだ。俺の前意識のいいたそうなことはわぁ!」との『 後 付け =キャッチ』された部分が誇大な脅迫性を持つのであって、表現はちょっとおかしい事を知りつつもあえて言うなら「この脅迫(強迫)は人為的だ」となる。

人為的なものは自我の名において解決可能なので、
「文化的自立が効果的である」
しかし、宗教は誇大妄想まんまのキャッチで選ばれる事が多く(なのでカルトが選択されやすい)誇大妄想の修正どころか「実現への野望」になる危険性も高い。

超自我の監視外である、スポーツ(ルールが超自我より権威をもつため)や芸術は超自我のジレンマによる苦痛や反発がほとんど発生しないので「アリ」なんだが、道徳的規制でリミッターがかかると力は制約される。(フロイド的に言えば『昇華』)

話はずーーっと戻るのだが、
この上記『「こうしろといった」として脅迫的な人格傾向の形成』の部分が自己嫌悪にあたる。
「捏造された自分の意思」、と言えばいいのか、、

つづく
posted by kagewari at 22:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


『住まいの心理学』
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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照

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