2004年05月04日

流れと意識される「本人」について

フロイド的なリビドーを「気」と考えるのは行き過ぎだと思うのだけれど、「気まま」で触れたように気の向きは完全な「自我意識」じゃありません。
「なんとなく」だと無意識っぽいし、「気まま」はノーストレスを意味しますから、ストレス(これ性格には刺激って事です)への対処としての方向付けが「自我意識」だとすっと、この「気まま」の方向性は何でしょう?

座頭市(勝新のですよ)で良く見かけるシーンに、二股に分かれた道のどちらかを選ぶ時に、小枝を投げるってのがあります。つまり「どっちでもいい」です。
岸田教授の「唯幻論」の面白いところは「幻(=意識によるイメージでリアルでは無いので)なので、どうでも良くない事などこの世に無い」つまり「どうでもいい」ってのがあります。これもパラドックスのひとつで、無価値とかを意味して無いワケです。「妙な拘り」は個体としての『自我』に由来するので、「価値の実存が拘り自体にあるのでは無い」って意味で、「でもどうでもいいなんてワケにはいかないんだよねー」が落ちです。

うまく言葉になりませんが、意識に対する自我の関与は100%ではありません。「だからこうなんだよー」な気持ちは果たしてナチュラルか?そんな感じです。ここと「謙虚」って言葉が被ります。「自分の線引き」と言えばいいのか、無意識なロジックが、無意識のままである時、それは気ままな流れなのではないでしょうか?

精神分析的には、無意識が意識を刺激し自我に取り込まれるときに「反動形成」や「自己嫌悪」によって、動機は「デフォルメ」されたり「反対」になったりします。問題とされているのは「矛盾した意識」そのもので、自我の在り様ではありません。
つまり、自我に取り込まなければならない理由が「矛盾や葛藤」だからです。

かなりわかりにくい論議なんですが、、
本来自我の出番じゃないのに、仕方なく自我マターになる悩みは、元々の自我には本来関係無いので「悩む自分」を自意識の中心であるかの如く考えるのは不自然なんです。
繰り返しますが「無意識の中に矛盾や葛藤がなければ、その意識は自我マターじゃ無い」そして「無意識って判断や言葉による方向付けをする場所では無い」。

これをどう考えるのかです。

悩む経緯は自分の過去のイメージと関連があります。
人のアイディンティティーは過去によります。
そしてその形は自我と無意識の組み合わせです。
悩みは、時制として「一時期無意識に保管された」のであって(抑圧といいますが)自分自身でも「本来無意識管理じゃない」とわかっているので「嫌悪構造」とかをセットにするのです。
その意味は?
それ以外の自我の成立とアイデェンティティーの温存です。
「素の自分」のイメージってどんなものでしょう。

やはり悩みってのは、自分にとってはた迷惑なトラブル(だから抑圧されるのですから)であって、悩んでしまう構造を「自分だ」と感じてしまうのは、その意識が矛盾を含んで(悩むほどに)自我を専有し続けるため、自我は「これはよっぽど重要なんだ」と誤解した結果なのではないのでしょうか。
悩みが晴れた後に「まるで別人ねえ」となるのでは無く、そこにあるのは「本来の自分の回復」であるのだと思います。

だからこそ、悩み自体をペシミスティックに評価したり、劇場的な物語として捉える事は危険だと思います。叙情や感傷、ノスタルジーや感動、、こういった事はどこか客観的な部分からきてると思いませんか?
それに主観を支配される事は「悩みによる占拠」であって、素の自分は他にある証明なんだと俺は思います。

posted by kagewari at 15:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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所謂臨床系の言うところの行動療法ってほど堅い話ではありませんが期待感あるアプローチだと思います
自我と時間』参照




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